2009年04月12日 「死の絶望に呑み込まれない喜び」イザヤ書40:6-11マタイによる福音書28:1-15古屋 治雄 牧師
主イエスの十字架を直視すること
先週、天神に出かける機会がありました。向こう側から二人のシスターの方が歩いてこられました。十字架をかけてらっしゃる。先週はちょうど受難週でした。単に装飾品というのではなくて、日々の生活の中で十字架を身につけている。どういうお気持ちかを想像しました。
使徒パウロは十字架につかれた主イエスの焼印を身に負うという、たいへん強い言葉で自分の信仰生活をそのように語ることもありました。受難週だけでなくて、私たちのために主がどういう歩みをしてくださったか、そのことを忘れない。十字架を見るたびにそこに架かってくださった主をしっかりと見ていく。自分の生き方の中にそういう姿勢を貫いていくことが私たちの信仰生活に求められていることであります。
それと同時に、十字架を身につけることによって、この私が主を十字架に追いやった者であり、その責任をまぬがれられない者であると自覚する意味があります。
主イエスの十字架が浮き彫りにしている事実
聖書に伝えられている十字架の場面をみると、その前後からもみえてきますが、みんなが主の十字架の方を向いていたわけではありませんでした。影で画策した人たちもいました。とくにユダヤの指導者たち、宗教的権威を持っている人々は、きっと十字架の主イエスをまじまじと見上げるということはしていなかったと思います。主イエスの人気にねたみを持ち、社会的混乱をもたらす者だ、とのレッテルを貼り、自分たちのこれまで大事に守ってきた法律にのっとって、それを違反する者として、指導者たちは、ああいう男がこの社会にいてもらっては困る。そのような判断を下し、また画策をしたのです。
同じ指導者でも、ローマのピラトは少し別な角度からこのことに関わっておりました。ユダヤの人々が独特の宗教事情を抱えているということは承知をしていました。だから、それらを受け入れて、イエスを許そうとも、主イエスを許そうともしたのです。しかし、政治的な力を一番強い形でもっているローマの責任者は、裁判が正しい裁判である、と、そのように言えないことは承知をしておりました。ちょっとむち打って許せばいいと、許せないのは、実際強盗を働いたバラバだ。主イエスを罰するつもりは毛頭、実はなかったのです。でも、ユダヤを支配し、治めておりますローマの権力者として、治安が不安定になり、暴動でも起こったらたいへんです。自分の首が飛んでしまうことを恐れました。不正な裁判であることを承知しながら、自分は手を洗って、このことに私は本当に責任をもたない、そのような妥協の中で主イエスは渡されたのです。
十字架の場面に弟子たちはいませんでした。あのペトロは、みんな逃げていったのですが、立ち去りがたく中庭に留まって、イエス様の様子をうかがっていました。しかし、あなたもあの仲間だろうと言われると、そのことを真っ向から否定いたしました。そして、そんな人は知らないと、ペトロははっきりと主を否定したのです。一番弟子といってよいこのペトロが、あんな人知らない、と言って、その場を去り、泣き崩れたのであります。
群集のことも取り上げなければならないでしょう。エルサレム入城の時には歓呼して主を迎えました。しかし、その週の後半のうちに、自分たちの期待をかなえてくれる、そういう超越的な人ではない、どうも違う、ということが明らかになってきますと、指導者たちから扇動されたことも安易に受けてしまって、十字架につけろ、と大きな叫び声を上げる群集と化してしまいました。
主は、これらの中で、言葉数はきわめて限られておりましたけれども、でもこの十字架に架けられていくことを通して、その周りにいたすべての人々の心のうちに何があったのかをはっきりと浮き彫りにされました。主の十字架にはそういう力があるのです。
悲しみの朝
きょうのこのマタイ28章の御言葉は、安息日が終わって、次の日になり、そして明け方近くの時間帯での出来事です。私たちで申しますと日曜の朝ということになります。福音書は、このときにいたるまでイエス様のいろんな出来事を伝えてきました。そして最後に伝えているのが、この十字架の場面であり、そして復活の場面です。復活の場面に至るその直前のところまで見ますと、これまでの主イエスに関する出来事は、大勢の人々が集まり、大勢の人々が期待し、弟子たちもそこにいたのでありますが、その弟子たちはもはやおらず、死んでしまわれた主が墓に葬られ、そして、ユダヤ社会は主の十字架の出来事をどれだけ記憶していたことでありましょうか。その中に婦人たちが去りがたく、葬られた主の墓に行ったのです。このときまで、この地を支配している空気は今までとまったく違っていました。過ぎ越しの祭りの喜びも、そこにはなく、主イエスによってこれまでなされた、人々を惹きつけ期待をもたせた奇跡や癒しの出来事のうねりは完全に終わってしまい、その主イエスは墓に葬られている。重苦しい空気、これまでの期待が裏切られて、いつもよりももっと暗い空気がこの主イエスの墓を中心としたこの地を支配しているのです。そのような中に婦人たちが登場しているのです。
28章はじめのところを見ると、他の福音書では香料を持ってイエス様のもとに行こう、誰か墓を開けてくれるかしらと、そのような思いが伝えられていますが、マタイの福音書は婦人たちがどのような思いで行ったのか、くわしくはその様子を伝えておりません。去りがたい思いが婦人たちの中にあった、ということは言えるでありましょう。
そのような中に不思議な出来事が起こり、墓の番をしていた者たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。この言葉から私たちがいろんな想像することは、控えなければならないでしょう。死者が葬られております、その静かな墓に特別なことが起こったのです。しかし、それはすぐ人々を希望に変えるようなものではない。死の恐怖を一層増し加えるような恐れが支配しているのです。
恐れながらも大いに喜び
墓に行った女性たちは、この不思議な光景に出会って、まず体験したのはやはり恐れです。どれだけ主に期待をしていたか、主を慕い求めていたか、愛していたか、婦人たちはその特別な立場でイエス様になお思いを寄せ、悲しみをここに表そうとしている。この婦人たちに天使の御告げが下ります。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」墓が、不思議なことに開けられていることが前提になっていますけれども、婦人たちはこの言葉を聞くのです。
イエス様が十字架に架かることを言われたときに、そのことを受け入れることができなかった。ましてや、そののちに、十字架ののちに何が起こるかということも、もしかしたらまったく忘れていたかもしれません。しかし、主の十字架の死は、実際の出来事になってしまいました。本当に起こってしまいました。イエス様が超越的な力を発揮して、死をまぬがれるかもしれない。十字架を降りてくるかもしれない。兵士たちだけでなくて、弟子たちもそういう主の力を期待していたかもしれない。でも、そうではなかったのです。死んでしまわれた。この主イエスの死という事実の重みに婦人たちは押さえつけられて身動きできないのです。
この出来事を受け止める二つの受けとめ方があります。一つは、墓に遺体がない。納得できる推理としては誰かが運び出して、そういう噂を立てた。しかも、このことのためにユダヤ当局は多額の金を兵士に与えて、このことを画策したというのです。この噂はユダヤの間に広まっていったとマタイ福音書は伝えています。
しかし、もう一つの流れは、たいへん不思議ではありますけれども、遺体がない、主はかねて言われていたとおり、天使を通してこの言葉をこの婦人たちに呼びかけられました。復活の朝、多くの教会で、早朝よりイースターのお祝いがなされます。私たちの礼拝に先立って、教会学校の子どもたちのイースターのお祝いの礼拝がありました。教会によっては普段よりももっと早く6時半とか7時とか集まって、礼拝をし、卵探しをしている教会もあります。それは、いちはやくイースターの喜びを経験しましょうという意味がそこにこめられています。
今朝のマタイの福音書は、この天使の知らせを聞いて、婦人たちが、これは8節の言葉でありますが「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」復活の日の朝、一番早く、恐れではなくて、喜びを経験したのは誰でありましょうか、この婦人たちの喜びが第1番目です。福音書を読み比べてみますと、そんなに早くイエス様の亡骸がない、天使を通して、誰かが運び去ったのではなくて、イエス様がよみがえられた、そのことを聞いただけで、もう喜びに満たされたという人は、限られているのです。
この婦人たちは、主イエスと行動を共にし、弟子たちとまったく同じ立場ではありませんでしたけれども、弟子たちに呼びかけてくださったその言葉を婦人たちもきっと聞いていたでありましょう。受難の予告も、天国の例えも。主がどんなに自分たちを愛してくださったか、愛し通してくださったか。神の民が神から捨てられているのではなくて、神の国が実現するそのような希望の中にひとつとされ、イエス様がそのさきがけを見せてくださった。
しかし、その約束をずっと信頼を持って受け止めることができず、自分勝手な期待をイエス様に投影し、自分の願いを先にし、そして決意の程を表明したのでありますが、それが単なる空回りに終わり、前よりも一層大きな絶望の中に包まれている。それは、まさに死の支配であります。どんなに勇ましいことをいっても、どんなに強固な決意を神様の前にしても、その決意を全うすることのできない自分の力で神の子として祝福に与るそのような道を切り開くことができない。そのことがイエス様の十字架によって明らかになったのです。そして、その反動は虚無です。この、むなしさ、裏切り、死の絶望、恐怖、これは自分の力で変える人間がいるでありましょうか。
しかし、そのような只中に復活の朝、恐れながらも大いに喜び、このニュースを伝えようとして、墓から立ち去った女性たちがいたのです。絶望ではなく確かに喜びが支配し始めたのです。そして、婦人たちに注がれたこの喜びは、人間的な喜びではなく、人間の可能性ではあり得ません。神の御子を十字架に架けたまい、またそのことを通して人の心の中にある闇を明らかにし、明らかにしただけではなくて、その闇が本当に神様のお働きによって、神様の御支配によって、新しく変えられる、その闇を神様が変えてくださる。その力がこの婦人たちに注がれて、婦人たちは恐れながらも大いに喜んで墓から立ち去ったのです。ここに、神様が、今朝、私たちに注いでくださっております神様の力があります。不安、絶望、死の恐怖、何重にも私たちはそのようなものに支配されています。しかしそのただ中で、私たちの闇が、死が、新しい喜びに変えられているのです。
弟子たちはこの知らせを受けました。先ほど読んださらに先、マタイの福音書の16節以下のところをみますと、主がそこにおられますのでありますが、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」この時点においても、疑いの心を持っている弟子たちがいます。これも私たちの姿を表しているといってよいでしょう。しかし、そのような私たちをさえ、あの弟子たちと同じように、イエス様の復活の知らせによって心に灯火がともされ、主にあっては望みがあることを信じて生きることができるのです。
死の絶望を主は喜びに変えてくださいました。この力が私たち一人一人に注がれているのです。私たちの生活のいろんな断面に絶望や死が支配します。自暴自棄になったり、私たちの方からもあきらめてしまったり、しかし、今朝明らかにしてくださった、あの婦人たちに注がれた喜びは、私たちの生活で経験するすべての絶望、すべての不安を、放置されたものではなくして、喜びに、希望に変えてくださいます。
礼拝の中で、4人の姉妹方が信仰を告白し、救いの中に導きいれられました。私たちの教会に主が生きて働いてくださっていることを、私たちはこの目で見ることができました。そして、同じ力が死を克服してくださるその力が、私たちめいめいの中に注がれているのです。私たちの教会に、この喜びが伝えられ、私たちもこの喜びをともどもに伝える者として、あらたな歩みが与えられていることを覚えたいと思います。