礼拝説教 2008年8月3日

2008年8月3日 「地の塩、世の光として」
イザヤ書42:5~7
マタイによる福音書5:13-16
古屋 治雄 牧師
 先ほども祈りで触れたことでありますが、私たちの日本キリスト教団では、8月の第1日曜日を平和聖日として、それぞれの教会で礼拝を覚えることになっております。敗戦に至るいろいろな経験から63年経過をしておりますが、改めて記憶を新たにしおられる方も多いかと思います。
 今朝は、この平和聖日に、主イエス・キリストから、私たちは地の塩であり、世の光である、と呼びかけられています。地という言葉にいたしましても、世という言葉にいたしましても、私たちの教会の範囲、私たちの社会のまとまりを越えて、広い広がりをもっています。私たちの社会のことや、日本という国のことや、世界の情勢のことや、日々いろいろなことが報じられ、私たちもその一部を承知しているのですが、そのような中で、私たちイエス・キリストに支えられ導かれている一人一人が、地の塩、世の光とされている、と主イエスは私たちに宣言して下さいました。
 戦争のことを申しましたけれども、1967年、戦後だいぶ経ってからでありますが、私たちの日本キリスト教団では、議長名で戦争責任の告白という文書がステートメントとして出されました。「世の光、地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛するゆえに、そのゆえにこそキリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。」この告白の中に、世の光、地の塩である私たちの教会は、と言われています。また少し後のところを見ますと、「わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました」とも続いています。
 あなたがたは地の塩、世の光です、との主イエスの言葉を、私たちは今朝積極的に聞くことが許されています。この御言葉によって私たちは信仰の力をいただいているのです。
 今日の御言葉の最後のところに、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と言われています。こんな言葉を聞くと、せっかくの主からの御言葉ですが、地の塩にしても世の光にしても、ちょっと躊躇してしまい、私はそのような者ではありません、違います、と身を引く思いがよぎるのです。私たちの中にいろいろなほころびがあることに気づかされ、とても地の塩、世の光という言葉の前に立つことができず、すくんでしまうのが正直なところです。
 先ほどの戦争に対する責任の告白は、地の塩、世の光とされている私たちでありましたが、正しい判断を本当にすることができたか、そのことが問われる時、当時の教団はそうたりえなかったことを告白しました。
 あなたがたは地の塩である。あなた方は世の光である。少し細かいことになりますけれども、元の言葉では本来、「あなた方は」という複数の人称代名詞は、ギリシャの言葉では動詞の中に含まれておりますので、そのことはふつう言わないのです。あえて言う必要はないのです。でも、きょうのこの13節、14節は、あなた方はという人称代名詞があえて、この文章のいちばん頭のところに、しっかりとはめこまれている。語られている。
 今日のこの御言葉は、地の塩となりなさい。世の光とならないと、あなた方はダメだと、そのようには言われていないんです。
 そもそも今日のこの御言葉は、マタイのこの5章を見ますと、あの幸いなるかなという祝福の言葉が八つ続いていましたが、その内容に結びついて語られているのです。八つの幸いなるかなの中に、自分を発見することができない。とても自分のことをそんな風に見ることはできない、との思いがありました。しかし主イエスは、私たちを逃がさない、この幸いの中に留まることができる、いや留まらなければダメだ、との余韻が今日の13節以降にも続いているのです。
 この「あなたがた」は5章の初めから見ますと、誰を指しているかというと、これははっきりと弟子たちを指しています。他の人たちが除外されているわけではもちろんありませんが、弟子たちです。
 私たちは、そうならなくてはいけませんよ、という勧告ではなくて、幸いの中に主によって招かれているのです私たちの自分の力では、それを獲得したり、そのことを当然のこととして受け止めることは、どれひとつとってできるものではありませんが、しかし主イエスが弟子たちにねんごろに語られたように、私たちキリスト者にも、今日の御言葉がねんごろに呼びかけられているです。
 すでに私たちは地の塩とされていると、すでに私たちは世の光そのものとされている私たちであると見ることが許されているのです。
 ですから、この幸いなるかなに続く今日の箇所を見ると、塩にしても、光にしても、「そのように受け止めないと、本来の役割を担うことができない、非常にもったいない」との主の思いが、続いているのです。
 まず前半の塩のところでありますが、私たちも塩の効能ということは、生活体験上かなり知っている、承知している、と言ってよいでしょう。ものが腐敗することを防止すると、また清めの塩という様なものも私たちの生活の中に使われる場合があります。清めの作用、また何よりも塩がそこに取り入れられることによって、それぞれの味が引き出される。大事な役割を持っている。こういうところは、塩の役割、私たちもわかります。とくに女性の皆さん、お料理の中で塩をどう使うかということが、料理の成功、失敗に関わっている、大きな要素であることを体験しておられることでありましょう。
 聖書全体の中では、この塩ということが、契約が結ばれる場面に塩が登場することがあります。また、塩自身が溶けることによって、その大事な働きをなすということにつながるかもしれませんが、聖書の中で、塩というものが犠牲的な役割を果たす。その意味合いがはっきりと出てくる個所もあります。
 塩の契約という個所が聖書の中にありますけれども(民数記18:19など)、両者が、神様とイスラエルという風に見ることができますけれども、しっかりと結ばれる、そしてそこによりよい関係が結ばれる。そして、塩がそこに用いられることによって、もはや、それが用いられる前のようなところに戻ったりすることはない。しっかりと結ばれると。こういう役割が聖書の中でしばしば塩の役割して、出てきております。
 私たちは、主イエス・キリストが私たち一人一人に働いてくださって、私たちに出会ってくださって、信仰的な意味において腐敗を防ぎ、清め、私たちの犠牲になってくださって、私たちを神様の塩を用いてくださって、その働きを十分受け取るものとされています。
 イエス・キリストが信仰によって私たち一人一人の中に、溶け込んでくださって、私たちに働いてくださっている。その働きを、私たちはしっかりと受けるものとされ、イエス・キリストの犠牲に与かり、イエス・キリストが命をかけて和解の契約をなしとげてくださった。そのようなものとされているがゆえに、私たちは私たちのこの主の塩味を私たちが生活しているところで醸し出していくことができるのです。
 塩の働きを受けている私たちは、イエス・キリストのお働きを受けることによって、私たちのこの社会の中にあって、独特な他の事によっては、その味付けを出すことができない、そのような働きをかもし出す私たち一人一人とされている、ということがわかります。
 光の方で考えて見ましょう。光のところでは、イエス・キリストが神様の光として来てくださった。ヨハネの福音書のところを見ると、そのことが高らかな格調高いプロローグとして語られています。私たち自身が光ではありません。しかし、光に照らし出されることによって、私たちはその役割を果たすことができる。私たちが光の源ではありません。私たちはその光をしっかりと反射するものにされているのです。世の光として、神様の光を暗いところ、神様の光が届いていないところ。闇の中にうごめいている人々にどうしたら、イエス・キリストの救いの光が到達するのでありましょうか。ひとつだけ言えることがあります。主イエスの救いの光を反射するためには、その光の前に身をかざして、その光をしっかりと受けることが必要です。私たちめいめいが光のほうをしっかり向いて、斜に構えるのではなくて、光のほうを向いて光にしっかりと照らし出される。そのことが大事です。
 そうすると私たちの努力とか、私たちの力量とか、そういうことではなくして、私たちを通して神様の光が、いろいろな人たちのところに届けられる。正確に申しますならば、それは光そのもののお働きというべきです。
 塩についても同じことが言えます。私たちはイエス・キリストによって結ばれて、私たちに贖いをなしとげてくださった、そのイエス様が私たちの中に働いて、塩味をかもし出してくださっているのです。
 そしてこれは消極的ではなくて、去る修養会において、パウロの第1コリントの、キリストの体とされている、というところを共に学びましたけれども、私たちにそれぞれの固有の賜物が与えられていると。塩味としてイエス様が働いてくださることによって、私たちからそれぞれの、私たちを通してでしかなしえない味がそこから発せられている。イエス様が働いてくださらなければ、私たちはそのようなことはできないのです。
 冒頭で申しました、私たちの立派な行いを見てというのは、私たちめいめいが称えられるのではなくして、私たちに働いてくださっておりますキリストの光であり、他では醸し出すことのできない塩味が発せられていると、私たちの群れはそのような群れとされているのです。
 光にしても、塩にしても、私たちは、主の働きを受けることによって、そこからたじろいだり、尻込みしてしまうのではなくして、光を升の下に置く者はない。そのごとく、私たちは神様の方をしっかりと向いて、まず私たちがその光を浴びて受けて、そのことを通して発揮される神様の働きを私たちは表していくことができるのであります。
 イエス・キリストが私たちに働いてくださり、世にとりましては、そのことは意外なことであり、世の価値観に迎合したり、一体化してしまうと、そこから私たちは、この持ち味を生かすことができません。これは決して私たちが到達することのできない理想が歌われているのではないのです。あなたがたはあえて主が力説して私たちにも呼びかけてくださっている。そこには、イエス・キリストの情熱があります。すでに私たちに注がれている働きがあります。その働きを受けているのです。この働きを無にしたり、それを否定したりしてはなりません。自分の力を抜いて、私たちは私たちを通して主御自身が働いてくださる、そのことを信じて、この御言葉を受け止めるべきであります。
 平和を作り出す人々、平和を実現する人々は幸いである。すでに、幸いなるかなのところで主は私たちにそのように呼びかけてくださいました。この呼びかけは、狭い範囲の中だけで通用することではなくて、私たちの教会の内側で、そのことが完結するような形でなされるのではなくて、地の上にまたこの世全体に私たちは主の教会の群れとして大きな役割を与えられています。
 私たちのいま住んでおりますこの社会を、とくにこの時、いろいろなことが語られ、そんなに専門的な評論家でなくても、私たちは、とくに戦争の経験を思い起こし、どう歩むべきか、神様の前で、私たちはそのことが問われています。そのような中で地の塩、世の光として、私たちに大きな役割が責任が託されています。
 この責任、理想に生きる者は滅び去ることはない。単に理想論に終わることはない。ある人は、このように高らかに私たちにも宣言しています。単なる理想論に、抽象的な理想論に私たちは主の御言葉をしてしまわずに、いま生かされている私たちのそれぞれのところに一方において地味かもしれませんが、私たちは見えるものであって、見えない形でじわじわっと働くそのような役割が託されておりますし、また塩だけではなくて、光として、自分を示すのではないけれども、山の上に輝くともし火として、私たちは多くの人々の前に、主の光をかざす、反射する、そのような役割も私たちのどこかにおいて、与えられているのです。