礼拝説教 2008年6月22日

2008年6月22日 「自由をもたらす信仰」
イザヤ書 44:9~17
コリントの信徒への手紙一 8:1~13
浅場 知毅 伝道師
 コリントの信徒への手紙一は、2000年前の初代キリスト教会最大の伝道者でありましたパウロによって、パウロ自身が建てた教会に宛てて書き送られたものであります。使徒言行録によりますと、パウロはコリントの地に比較的長い期間滞在しており、コリントの教会にしっかりとした基礎を据えようと苦心していたのかもしれません。しかし、パウロがコリントの地を離れてしばらくすると、コリントの教会にはさまざまな問題が現れてまいりました。パウロは、コリント教会に起きてきたそれらさまざまな問題を伝え聞き、またコリントの教会からパウロに質問をする形で手紙が寄せられたことにより、コリントの教会で起きている問題がどのようなものであるのかを知ることができたのであります。
 コリントの教会で起きてきたさまざまな問題は、実に具体的なものであります。つまり、コリントの信徒への手紙の中でパウロが語っておりますことは、コリント教会の具体的な問題に対して具体的に対処をし、指示を与えているものであって、何かキリスト者の信仰や信仰生活の一般論が述べられているということではないのであります。ですから、ここに記されていることを、即座にわたしたちに結びつけることはできないのであります。しかしながら、確かに、パウロは2000年前、具体的な教会に対して具体的な事柄に指示を与えているのではありますが、そのような具体的な指示を通して、信仰にとって重要な事柄が浮き彫りにされて示されているのであります。
 本日お読みいたしましたコリントの信徒への手紙一の8章の書き出しの部分に、「偶像に供えられた肉について言えば」と記されております。先ほど申し上げたように、この手紙は、コリント教会で起きた問題をパウロが伝え聞いて、またはコリント教会から質問の手紙が寄せられたことに応える形で成り立っております。ですから、ここで「偶像に供えられた肉について言えば」とあるのは、おそらくコリントの教会から「偶像に供えられた肉に対して、どのような態度をとったら良いのでしょうか」という内容の質問があって、その質問に対して「偶像に供えられた肉について言えば」と以下にパウロが答えているのであります。
 さて、ここで問題とされております「偶像に供えられた肉」とはいったい何でありましょうか。10節を見てみますと、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」と語られております。当時、冠婚葬祭などの特別な行事の時に、神殿で食事が行われることがありました。その場に招かれて、食事をする時のことがここで見つめられているわけでありますが、その食事は偶像の神殿で行われるものであります。ですから、その食事には偶像に供えられた後、そこから下げられてきた肉が出されたようであります。招く側は何も嫌がらせで招くわけではなくて好意をもって招くわけであり、そのような肉はいわゆる縁起の良いものとして出しているわけであります。わたしたちの習慣で考えるならば、法事の時に亡くなった方のご仏前で食事をすることと似ているかもしれません。その食事の際に、亡くなった方に供えられたお菓子をいただいてお土産にするということなどを思い浮かべていただければ分かりやすいと思います。そのような、食事の際に出される肉に対してどのような態度をとったら良いのかがここで質問されているのであります。
 コリントの教会の多くの人は、元々はギリシャの神々を拝んでおりましたが、パウロの伝道によって主イエス・キリストの父なる神様を拝むようになった改宗者であったと考えられます。改宗してキリスト者となった人たちは、元々は偶像を拝み、そのような行事にも参加していたことでしょう。しかし、信仰が与えられ、イエス・キリストの父なる神様を信じるようになったのであります。そのように新しく主イエス・キリストを信じて、父なる神様を拝むようになった人たちが、社会的な習慣や風習である偶像に供えられた肉を偶像の神殿で食べるといったことが、再び偶像崇拝に加わることになるのではないかと不安に感じたのであります。
 このような思いは、異教社会に生きているわたしたちにはよく理解できることではないでしょうか。先ほども譬えであげましたが、法事の時や仏式のお葬式に参列した時など、お焼香をしても良いのかとか、神社のお祭りに町内会の関係で関わらなければならなくなり、その際にどうしたら良いのかと思うものであります。お焼香をすることによって、自分は仏教の仏を拝んでいることになるのかもしれない、または神社のお祭りに参加しなければならなくなり、自分はその神社の神々に協力していることになるのではないかと思うものであります。同じように、コリントの人たちが、偶像に供えられた肉を食べることによって、自分が偶像の神々と関係を持つ者、偶像崇拝をする者になってしまうのではないかと不安に思う人が現れたわけであります。それゆえ、コリントの人たちはパウロに手紙を書き送り、「偶像に供えられた肉に対して、どのような態度をとったら良いのでしょうか」と質問をしたのであります。
 ところが、おそらくこの質問には続きがあったように考えられます。それが「偶像に供えられた肉について言えば」の直後にあるカッコの言葉であります「我々は皆、知識を持っている」です。つまり、コリントの人たちは、「偶像に供えられた肉に対して、どのような態度をとったら良いのでしょうか、『我々は皆、知識を持っている』と言う人たちがいるのですが」と質問をしたと考えられるのであります。ですからここで問題にされているのは、ただ偶像に供えられた肉が出される食事の席でどうしたら良いか、ということではなく、偶像に供えられた肉を食することを躊躇する人に対して「我々は皆、知識を持っている」と答えた人たちがいるが、それはどうなのかということが問題にされているのであります。
 「我々は皆、知識をもっている」と答えた人たちは、おそらく、偶像に供えられた肉を食べることに躊躇する人たちに対して、それに答えようとしたのでありましょう。その答え方が、「我々は皆、知識を持っている」であったのであります。
 ここで言われております「知識」というのは、4節から6節に記されている事柄であります。4節から6節で語られている内容は、神様はわたしたちが信じている唯一の神様しかいないのであって、偶像の神などというものは存在しないという知識であります。彼らは、唯一の神、唯一の主であるイエス・キリストと父なる神様以外に神はおられないのだから、躊躇することなく偶像に備えられた肉を食べたら良いと言っていたのであろうと考えられます。神様は唯一であり、他に神様はおられない、わたしたちが従うべき主はただ一人の主イエス・キリスト以外にはおられない、他の神々、偶像の神などと呼ばれるものは存在していない、「我々は皆、知識を持っている」と言った人たちの知識とは、このような知識であったのであります。
 このような知識は、わたしたちについて言うのであるならば、主イエス・キリストを信じることによって占いや縁起、風水といったようなものから自由にされているということと同じことを言っているのであります。確かにただ一人の神であり、主であるイエス・キリストを信じる信仰からするならば、占いや縁起といったものに縛られる必要はなく自由にされており、ましてや偶像はただの置物か人形としか考えなくなるものであります。パウロもそのような知識を認めており、1節でも「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言っておりますし、4節から6節はそのことを詳しく説明しているのであります。本日共にお読みいたしました旧約聖書イザヤ書44章9節から17節でも、偶像崇拝に対する痛烈な批判が記されております。特に15節以下のところでは、薪に使って暖を取るための木の残りで、人々は偶像を作ってひれ伏し、拝んでいることを揶揄して語っております。その意味では、主なる神様を信じる信仰において偶像は何の力もないただの木や金属の塊にすぎないという信仰の知識は、旧約聖書の信仰から継承された大切な知識であります。このような知識がまったく必要ないわけではなく、パウロも重要であると認めているがゆえに、信仰の知識について触れているのであります。ですからわたしたちも、この信仰の知識、つまり主イエス・キリストを信じる信仰においては、この神様以外の何物からも自由にされているという、わたしたちに自由をもたらす信仰であることを覚えておきたいのであります。ですから、偶像に供えられた肉を食べることによって偶像の神々を拝んだわけでも何でもなく、何か害を受けることすらもないように、わたしたちは不安に思うことはないということを大切にしたいと思うのであります。
 その上でパウロは、そのような知識には重要な問題があると指摘するのであります。先ほどから見つめております「我々は皆、知識を持っている」という言葉は、「我々は皆、強い信仰を持っている」とも置き換えることができるものであります。偶像に供えられた肉を食べるような場面になっても、自分たちは知識、強い信仰を持っているから、偶像に備えられた肉から何か害を受けることになるとは考えない、そのようなことが「我々は皆、知識を持っている」という言葉で語られているのであります。ここで問題になってくるのが、「強さ」であります。先ほども申し上げましたように、信仰の強さはどうでも良いものではなく、確かに大切なものであります。しかしパウロは、そのような知識や信仰の強さというものを認めながらも、1節の後半にあるように、「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語るのであります。
 信仰の強さや弱さというものは、わたしたちの中でも感じるものであります。信仰が強い人は、いろいろなことに不安を感じる人が「信仰の弱い人」であると感じることでしょう。また、「自分は信仰が弱い」と嘆く人も、それは今の段階で信仰が弱いのであって、できれば信仰が強くなりたいと願っていることの裏返しとして、信仰の弱さを嘆くのであります。そのように、わたしたちは強さに惹かれていく傾向があります。強い人になりたい、強い信仰を持って不安のない、平安な日々を過ごしたいと願うのであります。自分が不安に襲われると、それは自分の信仰が弱いせいだと敗北感すら感じることがあるのであります。また、そのような敗北感に襲われる人に対する助言も、時として「どうしてそんなことも分からないのか、信仰があったらもっと強くいられるはずだ」と、今風の言葉で言えば「上から目線」のようなものになってしまいがちになります。それらは、わたしたちが「強さ」に価値を見出し、そしてそれに惹かれるからではないでしょうか。
 しかしそのように、わたしたちが知識、また強さに目がいってしまう時、そこでは弱い人たち、知識の無い人たちが一段低い者、あまり重要な存在ではないものとして考えられてしまうのであります。それゆえパウロは、「知識は人を高ぶらせる」と語るのであります。つまりパウロはここで、イエス・キリストを信じる信仰の本質は、神様やイエス・キリストを知って強い信仰者になるということではないと語っているのであります。わたしたちの信仰が成長し、強くなっていくことは確かに大切なことではありますが、それが信仰者にとって一番本質的なことではないとパウロは語るのであります。
 では、何が本質的な事柄であるのかというと、パウロは1節で知識に対して「愛」を持ち出すのであります。信仰の本質は愛であるとパウロは言うのであります。いろいろな信仰の知識があり、いろいろなことを知っていても、愛よりも大切なものはないと言うのであります。それゆえ、2節で「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」とパウロは語るのであります。いろいろな知識に通じるよりも、わたしたちは愛に通じていなければ、それは「画龍点睛(がりゅうてんせい)を欠く」のであります。
 さて、わたしたちはここで愛をもたなければならないと聴くことにより、とても落胆するのではないでしょうか。愛をもたなければ不十分な信仰でしかないのであるならば、結局自分は不十分な信仰者でしかないと落胆してしまうかもしれません。自分は知識も愛も不十分な信仰者であると感じるかもしれません。しかしパウロは、わたしたちに愛を持つことを求めるのであります。それは、何か漠然とした愛を持つことが求められているのではありません。わたしたちが愛を持つことの大切なこととして、パウロは11節でこのように記すのであります。「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」つまり、わたしたちが愛するよりもまず、イエス・キリストが信仰の弱い人たちのためにも死んでくださったということをわたしたちが弁えることが大切なのであります。主イエス・キリストは、わたしたちすべての者の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。本来罪によって裁かれなければならないわたしたちを愛して、イエス・キリストはわたしたちに代わって十字架にかかってくださったのであります。そのキリストの愛は、自分のためであり、しかしそれは自分のためだけではなく、自分の隣りにいる兄弟姉妹のためにもキリストは愛を注ぎ、死んでくださったのであります。わたしたちは、自分を愛してくださる主イエス・キリストが、他の兄弟姉妹のためにも死んでくださったことを信仰の中心に置いて弁えることにより、強い信仰を持つことを最優先とする誘惑から自分を守ることができ、そして、兄弟姉妹を愛することができるようになるとパウロは言うのであります。
 わたしたちの信仰は、確かに自由をもたらす信仰であります。わたしたちは占いや縁起などについて考えることから自由にされ、たとえ行うことがあっても、それらは何の意味も無いものである知識を得させる信仰が与えられているのであります。しかし、わたしたちが真に主イエス・キリストの十字架の死を信仰の中心に据える時、主イエス・キリストが、偶像から自由になれない兄弟姉妹のためにも死んでくださった、主の愛を知り、わたしたちも主が愛して死んでくださった兄弟姉妹を愛することができるようになるのであります。信仰の知識によって得られた自由を用いることも自由でありますが、主イエス・キリストによって注がれた愛は、そのような自由も、兄弟姉妹のために投げ捨て、自ら不自由になることを喜んで行うことができる信仰、それほどの自由をもたらす信仰なのであります。
 パウロは13節で「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまづかせるくらいなら、兄弟をつまづかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言っております。パウロ自身は、この問題の渦中にあった人物ではありません。しかし、パウロは兄弟姉妹のためならば、わたしも自由を放棄して肉を口にしないと言っているのであります。わたしたちも、自由を行うことに固執するのではなく、主イエス・キリストが兄弟姉妹のために死んでくださったゆえに、自分の自由を喜んで放棄し、互いに仕える者となりたいのであります。いや、すでに、わたしたちはそうなれるほどの愛を、主イエス・キリストの十字架の死を通して与えられているのであります。お祈りをいたします。