礼拝説教 2008年5月25日

2008年5月25日 「神の愛の内に」
イザヤ書 46:1~4
マルコによる福音書 12:41~44
浅場 知毅 伝道師
 わたしたちは2008年度の標語を、週報の表に記されている通り、「主の恵みを感謝し、主の恵みに応答して生きる」と掲げて歩んでおります。「主の恵みに応答して生きる」ということを実際に形にしていこうとする時、わたしたちにおいては、それが「神様に献げる」という思いを持って行われるものではないでしょうか。恵みに応答する仕方はいろいろな形がありますが、わたしたちの応答の性質は、それがどのような形の行いであるとしても、基本的には「神様に対して献げる」という性質を持っているのであります。そこで、本日はこの「献げる」ということについて見つめてまいりたいと思います。
 さて41節に「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。賽銭箱に人々がお金を入れている光景というのは、わたしたち日本人にとって想像しやすいものであると思います。そこで大勢の金持ちが、皆の注目を集めるほどの大金を賽銭箱に入れたとあります。そこに貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを賽銭箱に入れました。すると主イエスは43節にあるように、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われ、貧しいやもめを称賛されました。
 やもめの持っていたレプトン銅貨というのは、聖書の後ろにあります付録の55ページに、「度量衡および通貨」というのがあり、それによりますと、「最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1」と説明が書かれております。つまりやもめは、「最も小さい単位のお金」しか持っていなかったのであります。その「最も小さい単位のお金」を献げたやもめを、主イエスは称賛されたのであります。
 主イエスは、やもめの何を称賛されたのでしょうか。金額の多さを称賛されたわけではないことは、一目瞭然であります。では、何でしょうか。もしかしたら、「やもめは心を込めて神様に献げた、それが称賛されたのだ」と考えるかもしれません。ですが、「やもめは心を込めたから」という理由を考える人は、その半面、「大勢の金持ちたちは心を込めていなかった」ということを考えていることになります。しかしどうでしょうか。これで金持ちが、たくさんの財産の中からほんの少ししか献金していなかったなら、心を込めていないような感じもしますが、この金持ちたちは、キチンとたくさん献げているのであります。よく考えてみれば、この金持ちたちは立派な行いをしているのであります。たくさんお金があるから、たくさん献げたのです。やもめだから心がこもっていて、金持ちだから心がこもっていない、そういう単純な話ではないのであります。
 では、主イエスはやもめの何を称賛されたのでしょうか。その答えは、44節の「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」という言葉にあります。やもめは、レプトン銅貨を2枚持っておりました。ということは、1枚は神様に献げたとしても、1枚は自分のために残しておくこともできたはずであります。ところが、やもめは1枚残しておくこともせず、2枚とも献げるのであります。これを、主イエスは称賛されたのであります。
 ここで注意したいのは、やもめが称賛されたのは献げたお金の割合のことではありません。たしかに主イエスが称賛されたのは、銅貨が2枚あるうち1枚を神様のため、もう1枚を自分のためとせず、すべてを献げたやもめの行為であります。しかし注意すべき言葉は、「皆は有り余る中から入れた」という言葉であります。主イエスが称賛されたのは、どれくらいの割合を献げたのかではなく、「有り余る中からではない」という点であります。貧しいやもめには、余るお金など無いのです。余るお金など無いのにも関わらず、生活費をすべて献げてしまったのであります。これを主イエスは称賛されたのであります。つまり主イエスが称賛されたのは、献げた金額の多さでも、心の込め具合でも、献げた割合でもありません。余るお金も無いのに、生活費の全てを、神様に献げきって、神様に自分のすべてを委ねた、そのことを称賛されたのであります。
 ところが、主イエスはやもめを称賛しておりますが、主イエスはやもめに対して「あなたは素晴らしいことをした」と語られたのではありません。主イエスの言葉は、43節に「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた」とあるように、弟子たちに向けられているのであります。弟子たち、つまり主イエス・キリストを信じて従っている信仰者たちに向かって、「あのやもめは誰よりもたくさん献げた。あなたがたこそ、あのようになるべきである」と言われているのであります。
 わたしたちはどうでしょうか。貧しいやもめのように、全てを神様に献げきって、神様を信頼して委ねてしまうことができるでしょうか。これはとても難しいことであります。繰り返しになりますが、これはお金をどれくらい献げるかの問題ではありません。わたしたちが神様をどれほど信頼しているかという問題であります。貧しいやもめは、生活費の全てを捧げてしまうほど、神様を信頼しておりました。主イエスは、「わたしに従うあなたがたこそ、あのようになるべきであるし、できるはずだ」と弟子たちに語られるのであります。
 わたしたちは、主イエスがやもめを称賛されたことに違和感を覚えないでしょうか。わたしたちの常識からすれば、やもめは軽率であります。献げてしまった後はどうするのか。周りの人に迷惑をかけることをどうして考えないのか。と、いろいろ考えるのが当たり前です。もちろんこのことは大切なことであり、これを考えないでわたしたちが迷惑をかけて良いというわけではありません。しかし、それでもわたしたちの常識というもの、経験や知恵というものは、自分の被害は最小限にして利益は最大限得られるように、という計算がつき物であることは否定できないことだと思います。つまり、金持ちの人が献げたように、余っている中であるならば、被害は最小限で済むと考えることと同じであります。このように考えると、神様を信じるということも、被害は最小限で利益は最大限得たいという計算が含まれているのがわたしたちの信仰であると言えます。神様に信頼して全てを委ねきってしまうというのは、わたしたちの常識では到底考えられないことであり、つまりは神様を信頼することができないのがわたしたちなのであります。これが、わたしたちの罪の姿なのであります。わたしたちは罪があるゆえに、神様を信じることができないのであります。被害は最小限で利益は最大限得たい、つまりは自分中心の罪が、神様を信じることをできなくさせているのであります。
 主イエス・キリストは、このわたしたちの罪を担い、わたしたちの罪のために、身代わりとして苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださいました。神様は、信じることができないわたしたちの罪を、主イエス・キリストの十字架によって赦してくださったのであります。自分自身を献げることができないわたしたちに代わって、主イエス・キリストは御自身を献げてくださったのであります。このイエス・キリストの恵みを受け入れるだけで、神様はわたしたちが全てを献げたと認めてくださるのであります。本日は共に旧約聖書申命記第1章26節から31節をお読みいたしました。この箇所は、イスラエルの人々がエジプトから導き出され、荒れ野を歩み、神様が与えてくださると約束された地に導き入れられようとした時、イスラエルの人々が、その地に住むアモリ人たちを恐れたことがしるされております。神様が約束してくださった地を目の前にして、人々は行く手にいる大きな強い敵を恐れたのであります。しかしモーセは、恐れているイスラエルの人々に向かい、29節にあるように言ったのであります。「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださるのを見た。」神様は御自身の民を、「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださる」のであります。神様が与えてくださる救いは、神様が父として、そしてわたしたちを子供として背負ってくださり、歩んでくださることであります。神様は今わたしたちを、常に、主イエス・キリストの背中によって背負っていてくださるのであります。その背中は、わたしたちの罪が赦されるために鞭打たれた背中であり、わたしたちの背きのゆえに血を流された背中であります。わたしたちひとりひとりのすべての罪が赦されるために釘打たれた手をもって支え、わたしたちを背負ってくださるのであります。それゆえわたしたちは、何が待ち受けているか分からないところに身を委ねるのではなく、独り子イエス・キリストの十字架によってわたしたちを救い、背負っていってくださる神様に信頼し、全てを委ねるよう招かれているのであります。
 献げるというのは、このように今主イエス・キリストによって背負っていてくださる神様に身を委ねることです。ですから、恵みに応答する、神様に献げるというのは「献身」以外の何ものでもないということです。献身と聞くと、牧師や伝道者になることを思い浮かべるかもしれませんが、そうではなく、キリスト者であれば、誰でも献身者であります。イエス・キリストによって生かされている全ての者が献身者であります。そこから考えるとき、わたしたちがあらゆる形で献げるとしても、それは自分をどれほど献げるかを問題とするよりも、わたしのために御自身を献げ、十字架で死んで復活され、今もわたしを背負っていてくださる方に、どのように愛と感謝のしるしを表すかの問題なのであります。ですから、感謝の表し方として教会での奉仕ということも考えられると思いますが、それは自分のために行われるものではないのであります。奉仕もまた、神様への愛と感謝の表れとして行われることになるはずであります。
 大切なことは、わたしたちがどれほどもことができるかをあれこれ考え、できるようになってから奉仕とか献げるということを考えることが、主イエスが称賛される「献げる」ということではないということです。自分に蓄えを持って、充分だと感じてからそれを用いていこうとするのは、金持ちたちが有り余る中から献げることと同じであります。自分の力で生きることをやめるのは不安かもしれません。何かを蓄えていなければ、自分自身の中に「最も小さな価値」しか見出せなくなってしまうかもしれません。しかしそれで良いのであります。たとえ「最も小さな価値」しか自分にはないと思っても、神様の愛の内に自らを委ねきって献げるとき、主イエスは、「あなたはたくさん献げた。有り余る中からではなく、あなたはすべてを献げたからだ」と称賛されるのであります。お祈りをいたします。