礼拝説教 2008年2月10日

2008年2月10日 「洗礼を受ける主イエス」
イザヤ書 42:1~4
マタイによる福音書 3:13~17
古屋 治雄 牧師
 アメリカでは大統領選挙のことが大きな関心と話題になって、私たちにもそのことが報じられております。ひとつの時代を表す特定の個人、これは政治家とか、大きく注目を浴びる人が、そういう人物になるのかもしれませんが、ときにその時代を、その時代の空気を大きく変える。その時代の空気を体現する、表す、そういう人物が待望され、みんなが賛成するかどうかわかりませんけれども、多くの人々が、時代を代表する人物を描く。そういうことがあります。
 ある特定の人にそんな大きなことを集約させるということは、ほんとにそうなんだろうか、そういう風にいえるんだろうか、またそういう力があるんだろうか、ということも心に思い浮かぶわけでありますが、人々の期待が寄せられるということはあると思います。
 スポーツの世界でも成績の良い人が登場いたしますと、新しいヒーローが登場した、なにかこうその人が非常に頼もしく思えたり、頼り甲斐があったり、窮地におちいると、きっとなんとかしてくれるんじゃないか、と、そのような期待がスポーツの世界でも寄せられるのです。
 マタイの福音書を、また始めのところから、わたしたち、御言葉として与えられておりますが、2000年前のユダヤの社会に、イエス様が登場してくださるわけでありますが、その登場してくださるその前に、当時のユダヤ社会を代表する宗教的指導者、それは私たちはイエス様を思い浮かべるわけでありますが、順番で申しますと、イエス様ではなくてバプテスマのヨハネでした。間違いなくヨハネでした。イエス様もそのことを受けとめておられる。
 ヨハネは決して自分の思いでなにか自分なりの算段や計算があって、そのように行動をとった、というのではなくて、神様からやはり特別な示しをいただいて、導きをいただいて、そのような役割をになっていると思うのですが、ヨハネの人気たるや凄いものでありました。
 そして、福音書の端々にユダヤの社会でまじめに生きようと、その伝統を受け継ごうとする人々が、ヨハネの方に弟子入りすべきか、イエス様の方につくべきか、迷っているような場面もうかがえるのです。
 そして使徒言行録などをみましても、まだヨハネの弟子たちがあるまとまりを持って存在していることが伺えるのです。それほどまでにバプテスマのヨハネの働きが注目を浴びていたということがわかるのです。
 前回みました3章の12節までのところ、ここにはバプテスマのヨハネが登場して、多くの人々が悔い改めをするために、罪の告白をして、その洗礼を受けた、ということが伝えられておりました。しかし12節までのところには、イエス様は直接登場しておられません。ヨハネは指し示しているのではありますが、登場しているのは今日の13節からであります。
 イエス様が直接登場されるのは、クリスマスのときから計算をいたしますとおよそ30年。イエス様はどういう生活をしてこられたんだろうか、ナザレでどういう生活をしてこられたんだろうか、いろいろな想像が及ぶのでありますが、きょうのこの13節をみますと「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。」。
 はじめてここに救い主としてのお働きをお始めになったイエス様が登場しておられます。ヨハネのところに来られた、とありますが、もう少しその意味を取るならば、ヨハネの元へとイエス様が出現された、現れた、こういうニュアンスがこの言葉にはあるかと思います。
 そしてイエス様はどこかに、たまたまそこに現れられたというのではなくて、ヨハネの方に向かって現れた。ヨハネの元へと現れた、とあります。つまりイエスさまは、ご自分のお働きをお始めになるときに、ヨハネのところに行く必要がある。当時脚光を浴びていたヨハネ、一線を画して別なところで別な働きをはじめるというのではなくて、脚光を浴びているヨハネの元に行ってご自分の働きをお始めになる。しかも、そのヨハネの元へと向かわれたのは、13節の最後のところをみますと、彼から洗礼を受けるためであると。
 このように見てまいりますと、イエス様のお働きは、ヨハネの元に行って洗礼をお受けになるということからでないと、始めることができない。イエス様の中に、そういう強い思い、自覚がおありであったということがわかるのです。
 福音書はいずれもそのことを伝えていますので、聖書に接している私たちは、もうそのことはもう当然のことと思っているかもしれません。
 しかし考えてみますと、イエス様はどうしてそのようにお考えになったのか、ということが問われてくるのです。とくにマタイの福音書は、洗礼を受けるためにヨハネの元に向かわれた、ということが非常に強調されて伝えられているのです。
 私たちはイエス様がお働きをお始めになるとき、今日の個所の後半の部分、洗礼を受けた後に、たいへん不思議な、普通の人ではありえないようなことが伝えられておりまして、そのことによって、イエス様が普通の人間とは違う神様の御子としての特別な登場、出現の光景が語られている。実際そうでありますが、いま申しましたように、イエス様の神の御子としてのお働きがはっきりとここに読み取れる、受け取れるのはバプテスマのヨハネの元に行って洗礼をお受けになることによって、はじめてそのことが繋がっている、結びついているということに気づかされるのです。
 ヨハネは、イエス様のこのお心を知って気づいて「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」
 イエス様はヨハネから洗礼を受ける必要がある、というと、いろいろな問題が実は考えられる。ヨハネがなしていた洗礼というのは、罪を告白することと結びついている、また悔い改めに導くということと結びついていました。そうするとイエス様は特別な人であるとはいえ、罪の告白とか悔い改めということを経なければ、そのことをなさなければいけないのか?そうすると神の御子としてのイエス様の大事なその御性質はどうなるのか、という風なことが、実は問題に入ってくるわけであります。
 ヨハネは、そういうことを察知して、イエス様、そのようなことをなさることはありません、わたしこそ逆にイエス様から洗礼を受けなければならないものです。このようにいった言葉は、私たちにもよく理解できることであります。
 しかしイエス様は、このやりとりの続きのところを見ると、15節、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」このようにおっしゃっていることが伝えられています。
 後の時代になって教会の時代になって、イエス様の救いの出来事がなしとげられて、マタイの福音書もそうですし、イエス様がヨハネから洗礼を受けた、このことが福音書に共通して伝えられておりますが、このことはのちの教会の人々にとっては、場合によっては、いま申しましたような意味で、あんまりこういうことは言わなくてもいいんじゃないか、イエス様はすぐ聖霊をお受けになって、神様から神の御子としての承認をえて、そうして神様の大事な御用にあたった、そのようにイエス様のことを伝えてもいいのではないか、そういう計算がよぎったと思います。
 でもヨハネから洗礼を受けたということは、いろいろな問題を含むかもしれないけれど、伝えなければならない、このことを削ぎ落とすことはできない、福音書はみなそういう視点に立っているのです。どうしてなのでしょうか?
 イエス様は罪人の一人、悔い改めが必要なそういう人だった、ということを私たちは認めて、そのことを乗り越えていくのでありましょうか?そうではないのです。バプテスマのヨハネは最後の預言者、決定的な預言者、救い主が登場する前の時代をバプテスマのヨハネがぜんぶその身に、その歴史を負ってイエス様の前に立っている預言者的な者、人、とみてよいと思います。
 多くの人々は、このヨハネからイエス様が登場する前に悔い改めの洗礼を受けたんです。これらの人々といっしょになるために、新しい時代に生きるために、イエス様ご自身がこれらの人々と同じ身になってくださった。
 ご自身罪を負っておられたから、というのではなくして、罪を負っている人々と同じ歴史の中に生き、とくにイスラエルの人々のその歴史をイエス様もその身に負う必要がある。このことを抜きにして、神の御子による罪があがなわれる時代に入ることはできない。
 先ほどみました15節をみますと、正しいことをすべて行うのはわれわれにふさわしいことです。イエス様は言われました。
 少し想像でありますが、我々ではなくて、私にふさわしいことです、という風にイエス様はおっしゃっても良いのではないか、という思いがあります。イエス様のことですから。しかし、はっきりと、ここに、我々、私たち、とイエス様は言われた。
 これは、この流れの中で読みますならば、ヨハネとやり取りをしているわけですから、バプテスマのヨハネとわたし、という意味でイエス様は、私たちにふさわしいことだ、とイエス様がおっしゃっている。そのように取るべきでありましょう。
 イエス様は、バプテスマのヨハネと同じところに立って、我々とおっしゃり、そしてバプテスマのヨハネが受けついた歴史をこれまでにようにまた継承するというのではなくして、水で悔い改めのバプテスマを施す時代は自分で終わると、ヨハネは前回のところでいいました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」ヨハネは、このように申しました。
 ヨハネの時代が終わって、神様が直接イエス様を通して働いてくださって、罪人の中に罪を糾弾する、罪を裁く方のみでなくて、その罪を本当に赦し、そのことから自由にされ、いつも心に負い目をもって、びくびくびくびく神様の裁きを恐れて生きる、そのような人間が許された確信を与えられ、許された者として顔を上げて生きることができる。そのことが実際起こる。イエス様がヨハネの後を受け継いで、そのような歴史を開始してくださるのであります。
 イエス様が我々にふさわしいことです、とおっしゃることによって、神様の救いの歴史に隙間や断絶が起こってしまうのではなくて、しっかりとそこが結ばれる。預言者の時代から神の御子が直接働いてくださる時代がしっかりと結ばれる出来事がイエス様が洗礼をお受けになった出来事に結ばれているのです。
 このことなくして、私たちはイエス様の救いの歴史を、私たちの歴史の中に隙間がなくて私たちの中につながっているという風に受けとめることができない。そういう出来事となるのであります。
 イエス様は罪人の身になって、罪人の低さまで下ってくださって、私たちの罪を背負ってくださった。ご自身罪はないのに罪人の姿を負い、しかも、罪人が神様によって滅ぼされ、死に至る、という、その絶望までイエス様は担ってくださった。そのことがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるということによって、私たちの歴史の中に残ってくるのであります。
 きょうのこの個所はイエス様の洗礼の個所でありました。先週の夕べの礼拝において、一人の姉妹がイエス様の前に罪を告白し、洗礼をお受けになりました。私たちが受ける洗礼は、イエス様がヨハネから受けてくださった。そのところまで実は繋がってくるのです。
 そのことによって、ヨハネからイエス様が洗礼を受けてくださったことによって、何か神話的なこと、神秘的なことが私たちの信仰理解の中で起こる、というのではなくして、神様が長い救いの歴史を私たちの中に起こしてくださり、それは旧約の時代までさかのぼり、神様の罪の糾弾が私たちにも厳しく起こる。
 その只中にイエス様が身を置いてくださって、罪が裁かれる。確かにそうでありますが、しかし旧約の時代が終わって、神の御子が私たちの罪をあがなってくださる歴史がそこに結びついているのです。
 私たちが教会で執行する洗礼は、父と子と聖霊との名による洗礼です。このこともとっても大事なことです。教会はこの恵みの歴史を、三位一体の神の恵みとして受け継ぎ、教会の中に罪の赦しと、洗礼を受けることによって、たしかに私たちは神様の救いの歴史の中におかれ、神の子とされ、どんなに罪の中にありましても、私たちは聖霊によって聖霊の注ぎを受けている一人一人である、ということを信じて良い、いや、信じなければだめだと、私たちは教えられ、また教会に洗礼ということが与えられているのです。
 「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」これはイエス様が言われたことであります。ヨハネの時代から御自身の時代を結んでおられる。そして我々にふさわしいことです、といわれた、このことは神様の救いの歴史がイエス様の時代、そして教会の時代に受け継がれている。この洗礼ということが受け継がれているのです。
 時に洗礼という、そういう宗教的な儀礼、儀式というものは、自分はあんまり好きではない、あまり儀礼的なことはいいのではないか。あまり大事に考えなくても、そういう風に受けとめていればいいんじゃないか、心で信じていればいいんじゃないか、という人に出会うことがあります。教会はそういう人に対しては「そうではありません」といわなければなりません。
 それは、教会の会員を維持するとか、教会のメンバーを維持するとか、そのことが第一義的にあるのではありません。そうではなくして、私たちが洗礼を受けて主の教会につらなる者とされ、これは抽象的なことではなくて、私たちのこの身に救いの出来事が実際に起こっていると、洗礼を受けた方はご自分の洗礼式のときを思い起こしていただきたい、その洗礼のときを通してイエス様が、また父なる神様が私たち一人一人を神様の恵みによって生きる者として私たちを作り変えてくださったんです。それが私たちの人生の中に、はっきりとひとつの出来事として起こったんです。そのように受けとめるべきです。
 そして、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた、と、これも歴史的な出来事として、イエス様がそうしてくださった、ということと、私たちの人生の中に、主にあがないとられた者として生まれ変わった、ということが実際起こった。
 当初洗礼は頭のてっぺんまで入る洗礼がもともとの洗礼でありました。バプテスマのヨハネとイエス様はここで距離がゼロになっています。ヨハネが洗礼をイエス様に授けたのでありますから、イエス様みに実際触れるかたちで洗礼式がなされた。
 洗礼式は執行者と洗礼を受ける人が必ずそこに接点が起こります。これは魔術的に考えてはいけませんが、そのことはとても大事なことです。水がしたたり、洗礼を受けたということが抽象的なことではなくて実感することができる。肌で受けとめることができる。それは、連綿と神様の救いの歴史が私たちの実際の生活の中に起こり注がれている、ということを知ることができるのです。
 今日の私たちの教会では、洗礼と聖餐が、目に見える、触れたり味わったりすることのできる救いの確かさ、と教えられています。そして、その確かさをさかのぼると、ヨハネからイエス様が洗礼をお受になったということによって、私たちのこの世界の中に、地上の中に、具体的な出来事として、単なる教えとか教訓とか理念とか、哲学とか神話とかそういうものではなくて、私たちのこの実際の生きていることの中に出来事として連続して起こっている。そのようなものとして受けとめることができるのです。
 イエス様が救いの歴史を大事にされ、ユダヤの伝統を大事にされ、それを身に受けてくださって、私たちにあがないの恵みを確かなこととして伝えてくださった。そのお働きが私たちの中にこれから展開されてくるのです。
 イエス様が登場してくださる前は、神様に触れることはできませんでした。神様を見ることはできませんでした。神様御自身の肉声をこの耳で聞くことはできませんでした。しかしイエス様が洗礼をお受けになって、神の御子としてふさわしい者として、私たちの只中に立ちたまい、今日私たちは2000年前の人のように、イエス様を見たり、イエス様にすがりつくことはできません。でもそれは旧約の時代の人々とまったく違うのです。なぜならばイエス様が人として、また間違いなく救いを成し遂げてくださった神の御子として、私たちのこの世界の中に生きてくださったからです。そして十字架の出来事と復活の出来事を成し遂げて下さったからです。
 イエス様が洗礼を受けてくださったこの出来事の中に、決定的な接点が設けられ、大きな恵みが開かれて圧倒的な力を持って私たちに降り注がれていることを、共々に覚えたいと思います。