礼拝説教 2008年1月27日

2008年1月27日 「恵みを預かって生きる」
イザヤ書 6:1-8
マタイによる福音書 25:14-30
東京神学大学大学院 浅場知毅
 本日は皆様と共に礼拝を守れますこと、心から嬉しく思っております。皆様と共に、今日は「タラントンのたとえ」から神様の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。
 ただいま申し上げたように、本日読まれました聖書の箇所は、小見出しにもある通り「タラントンのたとえ」と呼ばれて親しまれてきた箇所であります。主イエスが語られたたとえ話の中でも、最も有名なたとえ話の一つであるとも言えるでしょう。「才能」や「能力」を意味する英語の「talent(タレント)」は、この「タラントンのたとえ」から生まれた単語であります。このように、この「タラントンのたとえ」は広く知られたたとえ話であり、また多くの影響を与えてきたたとえ話の一つであるのです。
 さて、この「タラントンのたとえ」によく似た主イエスのたとえ話として、ルカによる福音書第19章には「ムナのたとえ」というものがあります。この「ムナのたとえ」と本日読まれました「タラントのたとえ」は大変よく似たたとえ話ですが、この二つのたとえ話は違う内容を示しています。よく似た話だから同じような意味だ、というわけではないのであります。「ムナのたとえ」の方を詳しく語ることはここではできませんので、私たちは「タラントンのたとえ」に集中したいのでありますが、「タラントンのたとえ」を理解するうえで最も大切なことは、このたとえ話が24章から始まる主イエスによる終末についての長い長い教えの一部、つまり終末についての説教の一部であるということを正しく把握するということであります。
 終末についての教えというのは、神様の右に座っておられる主イエス・キリストが再びこの世界に来られ、歴史を終わらせ、神の国をもたらす、歴史の終わりについての教えであります。「タラントンのたとえ」を含む全体が歴史の終わりについて、主イエスがたとえ話をもって弟子たちに語られているのです。歴史の終わりに直面する人だけがこの教えを覚えていれば良いというわけではなく、主イエスが弟子たちに、つまり主イエスに従う者たちに語られたのでありますから、私たちも弟子たちと共に終末の事について知り、備えなければならないのであります。
 では、この「タラントンのたとえ」はいったい何を私たちに教えているでしょうか。このたとえ話は、ある人が三人の僕に財産を預けて旅に出るところから始まります。この僕たちの主人が旅から帰ってきて僕たちに預けたタラントンを清算する、これが終末における出来事であると主イエスは語られているのであります。このたとえ話に登場する僕たちの主人とは、主イエス・キリストのことであります。主人である主イエスが帰ってこられる、つまり再びこの世界にやって来られるのが終末の出来事でありますから、主イエスが未だ帰ってきていない、これが私たちの今の時に当たるわけであります。帰ってきた主人は僕たちとタラントンの清算をし、そこでタラントンをどのように用いたかが問われ、商売をして儲けた二人の僕は主人と共に喜びの交わりを持ちましたが、預けられたタラントンを地中に埋めていた僕は追い出されてしまいます。つまり、終わりに際して私たちは、預けられたタラントンをどうしたかが問われるのであります。言い換えれば、今の私たちにとって究極的な問題は、今私たちに預けられたタラントンを私たちがどのように用いるかであります。終わりの事柄は、今の私たちと密接に結び合っているのであります。私たちが今、すでに預けられていると言われるタラントンをどのように用いるかによって、最終的に私たちがどうなるのかが決まるのであります。また、今私たちが主イエスの御心通りにタラントンを用いているかどうかが問われるということでもあります。
 さて、預けられたタラントンを用いることが大切であると申し上げてきましたが、このたとえ話で語られている「用いる」というのは、預けられたタラントンを増やすということが必ずしも正しい用い方であるとは語られていません。主人は、預けたタラントンをどのように用いるかということについて何も語っていないのであります。16、17節で五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕はそれぞれ商売をしたと書かれておりますが、私たちの常識からすれば僕たちの行為は非常識であります。たとえば、自分が友人を信頼して財布を預けて出掛けたとします。自分が用事を済ませている間に友人が賭け事によってお金を増やし、増えたお金を持って財布を返してきたとしたら、私たちは手放しでそれを喜ぶことができるでしょうか。結果的にお金が増えて戻ってきたから良いものの、もし減ってしまったり無くなってしまったりしたら、この人はどうするつもりだったのか、そう考えるのが常識であります。このたとえ話も同じであります。僕たちはタラントンを預けられて商売をし、結果的に増えたから良かったものの、商売というものは資本が減ることもあれば無くなってしまうこともあるのです。私たちが主人の立場であれば、たとえ結果的にお金が増えていたとしても、まず僕を厳しく叱るでしょう。しかしたとえ話の主人は、二人の僕たちに対して21節と23節にあるように「忠実な良い僕だ」と喜びを露にするのであります。ですから、預けたタラントンを「増やした」とか「減らした」ということに主人の関心は無いのであります。清算の時に主人が問うのは、タラントンを増やしたか減らしたかということではなく、預けられたタラントンを「活用した」か「活用しなかった」かであります。「活用した」ことが「忠実である」と称賛され、地中に隠して「活用しなかった」ことが「怠け者」と咎められるのであります。
 では主人から、つまり主イエスから僕である私たちに活用するように預けられているタラントンとはいったい何なのかを知らなければなりません。このタラントンが何なのかを知らなければ、活用することができないからであります。それゆえ、古代からこのタラントンが何であるかをめぐってさまざまな解釈がなされてきました。ある人は、この主人、つまり主イエスがこのタラントンは何であるかについて語っておられないので、僕である私たち一人一人が解釈すれば良いと言っております。何が預けられているのかは、信仰者個人の判断で決まると言うのであります。はたしてそうでしょうか。私たちの判断は間違うことがないのでしょうか。一タラントン預けられた僕は、まさにその判断をもって地中に一タラントンを隠したのであり、しかし主人からはそれが「怠け者」として咎められます。私たちの判断は間違うことがあるのです。預けられたタラントンが何であるのかをはっきりと知らなければ、知らず知らずのうちに地中に埋めてしまっていることがあるのであります。
 先ほど、このタラントンのたとえ話が英語のタレントという単語になったことを申し上げましたが、まさにここではタラントン、タレント、つまり才能や能力が与えられたと解釈する人もいます。人によって才能に違いがあるように、五タラントン、二タラントンと預けられた額に違いがあるのだと説明されます。しかし、主人は15節で「それぞれの力に応じて」とあるように、僕たちはタラントンを預けられる以前から力を持っていたのであります。僕たちはタラントンを預けられる以前から力がある、つまり能力や才能を持っていたのであります。ですから、ここでタラントンを才能や能力が与えられたと解釈することも、物語りの筋としてふさわしくありません。
 またある人は、やはりタラントンは才能や能力であると考えます。しかし僕たちがすでに才能や能力といった力を持っていることも否定できない。だから、これはさらに何か特別な能力を与えられた人たちについて語られていると解釈するのであります。確かにつじつまのあう説明であると思われます。しかし、最初の方で申し上げましたが、このたとえ話は終末についての説教であります。もしこのタラントンが特別な才能や能力を与えられることであると解釈するならば、終末の時に主イエスに良しとされるのも悪とされるのも、そういった特別な能力を与えられた人たち以外関係ないという結論になるのであります。
 では、このタラントンが示していることとはいったい何なのか。ここで一つ別の解釈の可能性を考えてみたいと思います。私たちは通常、このたとえ話でタラントンの差、預けられた金額の差に注目してしまうのではないでしょうか。私たちは金額の差に大きな意味があると考えているのではないでしょうか。タラントンというのは、ローマ帝国の通貨単位であります。1タラントンを別の単位に換算すると、およそ6000デナリオンです。この当時、一日働いた労働者に対して支払われた賃金の平均が1デナリオンであると言われておりますから、1タラントンは6000日分、16年ちょっと働いた分と同じ金額であります。つまり、五タラントン、二タラントン、一タラントンと何気なく書かれているように思えるこの金額は、三人の僕にそれぞれ莫大な金額が預けられたという意味なのであります。私たちの目から見たとき、五タラントン、二タラントンといった差に注意が引かれるかもしれませんが、主人の目からすれば、たとえ1タラントンであろうとも失ってしまったら量り知れない損害を蒙るような額であります。それにも関わらず、主人はその莫大な財産を、三人の僕を信頼して預けるのであります。
 主人は自分の莫大な財産を、僕たちを信頼して預ける。主人である主イエス・キリストが僕である私たちを信頼して預けてくださったタラントン、それは莫大な、量り知ることもできない大きな罪の赦しの恵みではないでしょうか。神様の独り子であられる主イエス・キリストは人となられ、私たちが自ら背負いきれない罪を代わって背負ってくださり、苦しみを受け、血を流されて十字架にかかって死んでくださいました。神の独り子が私たちのために命を投げ打って十字架についてくださり、私たちに罪の赦しを与えてくださったのであります。復活された主イエス・キリストが私たちに約束されたのは、御自身の十字架の死による罪の赦しであります。神の子の命をもって与えられた罪の赦しの恵みこそが、わたしたちに与えられたタラントンではないでしょうか。たとえ話での五タラントン、二タラントンという違いに目がいってしまうかもしれませんが、主イエス・キリストの十字架によって与えられた罪の赦しの恵みを多いと感じるのか、少ないと感じるのかは私たちの問題であり、主人は確かに私たちに莫大な恵みを与えてくださっているのであります。このタラントンは、旅に出ている主人、今目で見ることができない主人と僕たちを繋ぐ絆であります。主イエス・キリストと私たちの関係は、主イエス・キリストが与えてくださる罪の赦しの恵みにこそ、その基本があるのであります。
 さて、一タラントン預けられた僕は、せっかく主人が僕を信頼して莫大なお金を預けたのに、その一タラントンを地中に埋めて隠していました。僕は主人を24節にあるように、「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方」として考え、恐れていたからであります。主人は僕を信頼していたのに、この僕は主人を全く信頼していないのであります。主人はタラントンを預けるという形で僕に接しているのに、この僕はなぜか主人を信頼していないのであります。おそらく僕は、自分に預けられたタラントンに一切注目していなかったのではないか。私たちも「終末」ということを聞くと、畏れというよりも恐怖を感じることがないでしょうか。「神様は、きっと自分のような不信仰者を厳しくお審きになられるもしれない。終末は恐ろしい」と、心の奥底で思っていないでしょうか。「終末は恐ろしい」と思う時、私たちは、私たちに与えられたタラントン、十字架の恵みを忘れていることになるのであります。十字架の恵みを与えられていることを忘れて神様を信頼することができなくなる時、私たちは一タラントンを地中に埋めた僕のように、怠惰が始まるのであります。主イエス・キリストが与えてくださった恵みの内において、成功とか失敗はどうあれ、その恵みに応えようとすること、それがこのタラントンのたとえ話で求められていることなのであります。
 さて、タラントンという恵みは一つであるとしても、その恵みに応えるというのはさまざまな形があると言えます。それは一概に「こうでなければならない」というものではありません。本日は共に、旧約聖書イザヤ書第6章1節から8節をお読みいたしました。「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。』するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」この箇所は、預言者イザヤが神様によって召し出された出来事が記されております。イザヤは、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」のであります。神様の聖なるお姿を見たイザヤは叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤは、自分が汚れた者であるのに、聖なる神様を見てしまった、滅ぼされると恐れるのであります。しかし神様の御使いであるセラフィムが炭を持ってきて、「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と告げました。そして神様が「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と言われた時、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったのであります。イザヤは何か自分の中に素晴らしいものがあって自信があったから「わたしを遣わしてください」と言ったのではありません。神様のお姿を見たとき、イザヤは自分が汚れた、罪深い者であるということしか見出せなかったのであります。私たちも神様を見上げるとき、自分の中に素晴らしいものを見出すよりも、自らの罪深さやいたらなさを感じるばかりではないでしょうか。しかし、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と叫ぶのであります。なぜなら、神様が「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と告げてくださったからであります。私たちは与えられた恵みに応えようとする時、自分に何ができるだろうかと考えるものであり、そこから自分の能力、タレントが何であるかを考えてしまうものであります。しかし、私たちの能力・タレントは、真のタレント・タラントンである主イエス・キリストの恵みにこそ支えられて意義あるものとなるのであります。
 私たちが答えようとする時、それは何も大きなことをしなさいと言われているのではないのであります。一タラントンを地中に埋めていた僕に対して主人は言います。27節、「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。」何度も申し上げますが、このたとえ話はタラントンを増やすとか減らすということによって主人の評価が僕たちに下されているわけではありません。ここで言われている「わたしの金を銀行に入れておくべきであった」というのは、主人から預けられたタラントンの活用の仕方で最も簡単で小さい方法が銀行に持っていって預けるという、誰にでも出来ること、それで充分であると主人は言っているのであります。応え方に失敗するとか、成功するとか、そういったことがここで言われているのではないのです。失敗することを恐れず、いや、そのような失敗すら赦してくださる恵みであるタラントンが私たちに与えられていることを確信し、その恵みの内に喜んで生きることそのものがここで言われている「活用」なのであります。それが恵みを預かって生きる者であり、「忠実な良い僕」と主人である主イエス・キリストから喜ばれる僕なのであります。