2008年10月5日 「言葉に責任をもつこと」箴言16:21-24マタイによる福音書5:33-37古屋 治雄 牧師
先月、4回ほど連続して福岡女学院の中高生のチャペルに招かれて奉仕をいたしました。教会学校で、若い人々が私たちの礼拝の前に集まって礼拝と分級をしていますが、若い人々が非常に自由に交わしている言葉、そのテンポの良さとか、元気さとか、圧倒される感じがいたします。
また、よく聞いてみると、何を言っているのかわからない言葉もあるわけであります。若い人々が自由に使っている言葉の、創造性といえばそうかもしれませんけれども、たいへん元気の良さと同時に言葉そのものが本当に大事にされているかどうか、いう風なことを考えさせられることもあるのです。いろんな言葉を短縮して、どういう言葉を短縮したか聞かないとわからないことも、ときどきあるわけであります。
この短くするだけでなくて、あることをいう場合に、そのことが“凄い”ことだと、みなさんもお聞きになっていることだと思いますけれども、“超~”という風な言葉が昨今たいへんいろんな機会に聞かれるわけであります。
私たちもよくよく考えてみると、若い人が言葉を大事にしておらず、若くない人が言葉を大事にしている、と言えるかというと、これはまた疑問であるかと思います。
いろいろな“超”という言葉をくっつけて、そのことが凄いことだということを言いたいのですけれども、でも、たとえば“超かっこいい”と言った場合に、かっこいいという言葉そのものが持っている言葉が実は目減りしている。“超かっこいい”と言わないと、かっこいいということが表現できない。ひとつひとつ、大事にしている言葉のその意味の深さや広がりが、増しているようであって実は貧相なものになってきてしまっている。そういうことも言えるかもしれません。
表現を大きく重く、実はその芯になっている言葉が空洞化している。これは、子どもの言葉だけでなくて、私たち大人の中にも蔓延していることではないか、という風に思います。そしてそれは、言葉を使う人間がいます。私たちが使っているのです。使っている私たち一人一人が、その言葉にどれだけ重きをおいて語っているか、聴いているか。言葉を用いているものが、その言葉にどれだけ誠実、真実をこめて語っているか、ということが、問われていると、そのようにも言うことができるのです。
今朝の聖書の個所は、主イエスが、山上の説教というところがずっと続いているのでありますが、旧約聖書を引用して「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」。これとまったく同じ個所というよりも旧約聖書の中にこういう趣旨の言葉がありますけれども、誓いに偽りがあってはいけない。これは、誰でも、これに反対する人はいないでしょう。おっしゃる通りです。偽りの誓いなんていうのは、だめだと。人間関係、また社会をだめにする。誓いをするなら本当に心をこめて、そのことに真実を確信をして、真実をかけて誓わなくちゃいけない。そのように私たちも賛成することができるのです。
今朝、礼拝の中で、先ほども祈りの中で触れましたけれども、転会式をいたします。そして、対象の姉妹に誓っていただくんですね。イエス様は、今日の聖書の個所で、この続きのところを見ると、これこれと聞いているけれども、いっさい誓いを立ててはならない。このように今朝、御言葉の中でおっしゃっておられます。
先々週は、私たちの教会で結婚式が開かれました。結婚式の中でも、それでは誓約をしていただきます、という約束があります。私たちの教会生活の中には、大事なところで誓約がいっぱいあります。そういうことはいけない、と主はおっしゃっておられるのでしょうか。これは、よくよく今朝の主がお語りになっておられる御言葉を全体として受け止めていく必要があるかと思います。
山上の説教の中で、具体的な、私たちの生活に関することで、主は今日の聖書の個所の前のところを復習してみますと、姦淫をしてはならないと聞いている。これも十戒の言葉をイエス様が念頭に置いてくださってお語りになりました。
さらに、その前のところをみると、殺すなかれ、これもやはり十戒の戒めに関連する内容として、イエス様がお語りになりました。汝殺すなかれ、汝姦淫するなかれ、あなた方はこういう風に聞いてきた。しかし、私は言う、ということで、今日の個所の前にイエス様はお語りになったのでありますが、具体的な展開の3番目として、誓ってはならない、ということをお語りになっておられるのです。
十戒の中には、これとぴったり、そのまま合う戒めはありません。ただ関連する戒めとしては、主の名をみだりに唱えてはならない。十戒の中のひとつでありますが、そういうことと関連しているという風にみることはできるかと思います。
今日のところにイエス様が、誓ってはならない、ということで、天にかけて誓ってはならない。また、地にかけて誓ってはならない。エルサレムにかけて誓ってはならない。このように話を進めておられました。これは少し、聖書の人々の実際の歴史の中に、その事情があるようです。
聖書の人々は、神様の名前を言っちゃいけない。ですから、文字で神様の文字があるんですが、そのところに来たら、普通の生活で使っております、人間関係でも主人を指す「アドナイ」という言葉で言い換えて、聖書を朗読したり、お祈りをしたりしていました。
神様のお名前は、文字が4つあるんですが、これは聖なる神聖な4つの文字だから、語ってはならない。そのことがありましたゆえに、聖書の人々が生活の中で、誓いをするときに、神様の名前ではなくて、天を指して誓う。神様の名前ではなくて、私は地にかけて誓います。エルサレムにかけて誓います、という風に、少し緩和させる言葉を和らげる、誓いの程度を和らげる意味でこういう誓いをしていたようであります。そのことは、そこに誠実さがこめられているならば、問題ではないのでありますが、誓いの決心のほどをトーンダウンさせてしまう、そのことが、真剣さや誠実さもトーンダウンさせてしまう。そういう経緯があったようであります。
ですから、そこに真実をかけているとは言えない誓いが、天にかけて誓います、地にかけて誓います、という風な形で徐々に徐々に誓いをするイスラエルの人々の、その決心の固さとか、誠実さということに、邪念といいましょうか、誠実さでない思いが、そこにこめられてきた。そういう経緯も実際あったようであります。
イエス様が誓ってはならないことの4番目に、その前の3つと少し違って、「あなたの頭にかけて誓ってはならない」と言われました。ここにも、イエス様が今日のところで何をおっしゃりたいのか、ということがにじみ出てきていると思います。
言葉そのものが、本当に私たちの真実と少しも変わらない。何の目減りもしていない。そういうことであるならば、いちいち、これは私が本当に言いますとか、本心で言いますとか、神様にかけて誓いますとか、そういう風に言う必要はないのですね。自分の本心が危うくなっているようなときそれを補うために、こういう言い方が出てくるのです。
私たちの信仰は言葉をとても大事にします。聖書の神様、形に現された神様ではなくて、私たちに呼びかけてくださり、お姿は見えませんけれども、私たちの生活の中に生きて働く神様。生きて働く神様ということは、私たちに言葉を発しておられるのです。
天地創造の聖書のいちばん初めの出来事も、神様は「光あれ」と、この言葉で世界をお創りになり、私たちを作ってくださいました。神様の言葉は、恵みの出来事をそこに生み出すのです。無から有を呼び出す神様。神様は言葉を発して、その言葉によって神様の恵みの出来事がそこに起こるのです。
私たちも神様の恵みに与かるときに、言葉を大事にします。神様の言葉が真実である。そして、その真実に与かる私たちも、具体的な生活の中で、神様をだしに使ったりするのではなくて、言葉の上で私たちの真実さを表していくことが求められている。今朝の礼拝の招きの言葉でヤコブ書の御言葉を聞きました。ヤコブ書には言葉の力というよりも言葉の弊害ということが指摘されています。口は他の器官よりも小さいと。2つではなくて1つだ。しかし、大きな船も小さな舵で方向づけがなされるように、私たちの言葉が私たちの人格を表す。御栄えを表す言葉ではなくて、人を傷つけてしまったり、神様を汚してしまうことが指摘されています。
主は、今朝の、誓ってはならない、ということを通して、私たちが日々の生活の中で本当に神様の真実な言葉に生かされている者として、責任ある言葉、神様を称え、人を生かし、自らも神様に作られた者として賛美を歌う。そういう言葉の生活をしているかと、そのようなことが、私たちに問われています。
聖書の中でもう少し言葉のことをみますと、神様の言葉が聖書の中に世界への契約、私たちへの契約、イスラエルへの契約という形で語られています。
契約といいますと、私たちの日常の中でも契約書を交わすということが、お仕事などではあるかと思いますが、双方がその内容に合意して、これなら損はないと、これなら合意できると、人間の契約っていうのは、対等な立場でそれを結ぶか、結ばないか、神様の契約は人と人との契約と根本的に違う、といって良いと思います。そもそも私たちと神様が対等な立場で、そうではありませんでした、神様が私たちを恵みによって創ってくださった。恵みによって生きる者としてくださったのです。
今朝も礼拝の前に成人科のクラスがありました。出エジプトの恵みをいただいたイスラエルの民が約束の地を目指すのでありますが、その神様の恵みを忘れて、すぐ不平をいう。そういう聖書の個所を学びました。
神様の私たちに対する契約はどういう契約か。ひとつ具体的にみてみたいところがあります。神様の契約のとても大事なところが示されているところでありますが、神様がアブラハムと契約を結ばれたことが創世記の15章に登場いたします。
アブラハムは、その神様の約束を信じた、ということが15章にも登場いたします。その後に続くところですが、どうぞお聞きください。「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。」云々。
神様が私たちに与えてくださる言葉、神様が私たちに誓約してくださったこと。アブラハムの場合でありますが、聖書の人々は、契約を結ぶといったときに、契約を切る、という言い方をするんです。とても珍しい言い方なんですけれども、これはさかのぼりますと、実際そういうことが古代、文化的に行われていたことがうかがわれるのですが、人と人とが契約を結ぶときに、動物を真っ二つに引き裂いて、その引き裂かれた間を約束した者が通る。こういう儀式があったようです。それは、もしも、ここで結ぼうとしている約束を違えるようなことがあったならば、そこに目の前に引き裂かれている動物のごとくなってもよろしい、そのことを覚悟で約束をします、という文化といいましょうか、しきたりが古代にあったようですね。その名残が表されているのです。
先ほどみましたところをみると、アブラハムと神様が契約関係に入るのですが、誰がこの間を通っているのでしょうか。もう一度、みましょう。「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」ちょっと不思議な言い方です。これはアラハムが通っていないことは確かです。このような表現で、実は神様がここを通っておられる、ということを意味しているのです、これは。
聖書の神様は、得体の知れない、なにか形にも現すことのできない抽象的な頼りにならない漠然とした、とりとめのない神様だ、と思っている人があるならば、これは、まったく反対です。形に表すことができない。生ける言葉をもって私たちを呼び出し、恵みの契約の中に私たちを生かしてくださるのです。
アブラハムも罪を犯しました、失敗をしました。私たちが罪を犯しても、でも、この約束は反故になりませんでした。神様ご自身が、この約束を忠実ならしめるために、裂かれた動物の間を通る。旧約の人々はそういう信仰を持っていました。そして、それは神の独り子であられる御子イエス・キリストが私たちのために身を裂いて神様の約束を忠実に、いや完全な形で恵みの中に私たちが生きることができるようにしてくださった。そのことにもつながってくるのです。
ですから、そのような私たちが神様をだしに使ったり、本当はそう思っていないのに、神様を自分の不十分さを補うような形で引っ張り出してきて、本当に責任の取ることのできない約束をしたりする。そのようなことはあってはならない、と私たちは呼びかけられているのです。
今日のところでは私たちは「然り、然り」「否、否」とだけ言いうる者ではないかと続けられています。つきつめると私たちは神様の前で自分の方から何か題設定をして、そして自作自演の演技をすることはできません。本当の主導権は神様におありだ。神様が恵みによって私たちを導いてくださっている。その恐れ多いことを受け止めると、私たちは「然り、然り」「否、否」だけしか言い得ないと知らされるのです。
それから、もうひとつ、ここで私たちにはっきりと示されることがあります。それは祈りです。私たちは、罪を犯したときに神様の前に立ち返って、そのことを言葉で告白して、神様に赦しを求めるとき、神様の真実に与ることができ、赦された者として、その恵みの契約の中に確かに自分が結ばれていることを知ることができるのです。誓ってはならないとの主のご命令は、私たちを黙する者とするのではなく、祈る者へと導いておられるのです。
祈りの言葉に、私たちは最後にアーメンといいます。アーメンという言葉は、私たちの本当の真実をそこに注ぎ出だします。言葉の意味は、「真実に」との意味です。
言葉に責任を持つことは、ないがしろにされてはなりません。私たちの日常的な生活の中にこのことが問われています。私たちは神様に愛されている者として生き、神様に愛されている者として隣り人との言葉のやり取りをしていく。神様にお願いすることもあるでしょう。いっしょに神様を賛美することもあるでしょう。いっしょに神様の憐れみを信じて嘆きの中に沈むこともあるでしょう。しかし、そのようなときに私たちは、神様がはっきりとイエス・キリストの出来事として現してくださった神様の真実の言葉に、私たちは生かされるのです。この救いの御言葉を確かに聞き、その言葉に生かされて、私たちも神様の真実に結ばれた言葉を使うものとされているのです。