礼拝説教 2007年4月8日

2007年4月8日 「復活の主が私たちを導きたもう」
イザヤ書 48:17-19
ヨハネによる福音書 20:19~23
古屋 治雄牧師
 今朝私たちはイースターの喜びに一人一人が招かれています。主イエスキリストは私たち一人一人を呼び出し、不安や恐れではなく、平安あれと私たちに呼びかけてくださっています。
 それぞれの福音書が複数の復活に関わる出来事を伝えています。今日のヨハネの福音書20章19節以下をみますと、その日すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた、とあります。イースターのこの朝、夕方に到るまでユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて弟子たちが集まっていたというのです。福音書が伝えるそれぞれの復活についての出来事をみると、皆共通して恐怖感に襲われています。待っていましたとばかり、すぐ喜びを経験した人は一人もいません。特にこの箇所には、朝を過ぎ昼を過ぎ、夕方になってもまだ喜びに包まれずにいる弟子たちがいます。
 イースターの出来事は、聖書からイエス・キリストのことを知ろうとするとき、大きな躓きになるか、逆に大きな福音になるか、そのどちらかであるように思えます。十字架で死んだ主イエスが復活した、などとあり得ないことを言って、どうしてそんなことが大事にされなければいけないのか。聖書には他に分かり易い、また納得できるいいところがいっぱいあるではないか。そのように考える人が実はいっぱいいるのです。
 使徒パウロがアテネで伝道いたしました。パウロはこの町で復活のことを語りました。使徒言行録に伝えられています。初めは、皆興味深く聞いていた人たちも復活の話になり、あざ笑いそして、それについてはまたいつか聞かせてもらうから…もうそんな話は話にならないといって一人去り、二人去り、パウロのもとから誰もいなくなってしまった、というのです。パウロは他の聖書の箇所で、キリストの復活がなかったなら私たちの宣教は無駄であるし、あなたたちの信仰も無駄である、と言っています。もし復活がなかったら、伝道宣教の一切が無駄だと断言しているのです。
 今朝教会学校の礼拝が私たちの礼拝に先立って行われました。イースターの日に私たちが集まってお祝いし、イースターの卵をみんなで探し出して、イエス様の復活を喜びました。この行事の歴史をたどっていくと、弟子たちが初め恐ろしくて隠れていた。そこに主が現れてくださって、その不安を取りのけてくださり、平安あれとの言葉に新たにされ、弟子たちは心解かれて、みんなで喜んだのでした。時間的には恐れの思いに長く覆われていましたが、その後大いなる喜びに包まれたのです。
 いずれの復活を伝える出来事も、その出来事を見ますと私たち人間の英知を総動員し、科学的なことやそれまでの哲学や思想やいろいろな言い伝えやそのようなものを総動員して、復活がわかるかと問われたら、人間には分からない、理解できないのです。その壁は絶対に私たち人間の方から手で開けることはできない。しかし、私たちの方からではなく、甦りの主の方から、私たちに働きかけが起こるときには、不思議にもその開かない壁は簡単に開いてしまうのです。
 墓に朝とんでいったマリアたちはそこに誰かいるということはわかっても、まさかそれが甦りの主だとはわからなかった。園丁がいるのかとも思った。でも主イエスが、マリアよ、と声をかけてくださった時にマリアは主イエスであることがはっきり分かったのです。復活の主の方からの働きかけによって、絶対に納得できない、理解できないそのことが私たちには恐れが喜びに変えられ了解されるのです。
 復活という出来事は私たちにとって大きな壁だと思います。一般論として一度死んだ者が墓から出てくることがあるだろうか。私たちのこの地上世界の中で仮死状態とかいう合理的な説明ではなくて、本当に死んでしまったものが、墓から出てくることが、本当に私たちに可能なのか。聖書の伝える復活という出来事を今申しましたような点からみるとやはり、壁であり、その壁は開かないままふさがれている。
 しかし、聖書の伝える、十字架の出来事と復活の出来事は、はっきりとした一つの視点を私たちに提示しています。それは、主イエスを死なしめた力を問題にしていることです。そしてその主イエスを死なしめた力を浮き彫りにし、復活によってその力に対し神の力がうち勝ったことを明らかにしているのです。主イエスは病気にかかって死んでしまった、というのではないのです。そういう主イエスがどういう訳か生き返ったというのでもありません。主ご自身が、十字架の死に向かわしめる力をいつもご自身の中に受け止め、見抜いておられました。ヨハネの福音書2章に、人々の関心をかい、注目を浴びておられるただ中で、主は、「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかった。イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」と伝えられているとおりです。
 弟子たちが今日のこの日夕方に至るまで、復活の主に出会った。墓が空虚の墓になっていた、ということはすでに聞いていたのですが、なお鍵を閉ざしてひっそり息を潜ませている。この恐れは何であったのでしょうか。自分たちの事が発覚したら自分たちも殺されるかもしれない。そういう恐れもあったでしょう。ユダヤ人を恐れてとありますから。
 しかし、それだけではなく、弟子たちにとっては他の恐れ。イエス様を裏切ってしまった恐れ。主イエスに顔向けできない恐れがあったと思います。もしも自分たちのこの決定的裏切り行為がもう一度主イエス本人の前に明らかにされたら、会わせる顔がない。この弟子たちの姿はもはや責任ある一人の人格、一人の大人の生き方として、自分の生き方に責任を持ち、自分のやってきたことに責任をもって生きていく、人としての尊厳をもはや失い、やっていけない。どんなにかごまかしても、このごまかしは、もしも主イエスが現れるならば、ごまかすことができない。
 主イエスの十字架は、弟子たちだけではなく、主イエスを死に追いやってしまう私たちの中にも生きている、このもろもろの勢力、力の本質を明らかにしました。十字架の出来事の前には私たちは顔を上げることができない、そして私たちの方からイエス様が墓におられないということをたとえ聞いても、私たちの方からそれを喜びや希望に変えることはできないのです。
 しかしそのような私たちに、主は、主の方からその閉ざされていた部屋に現れてくださって糾弾や断罪ではなく、あなたがたに平和があるように、と言葉をかけてくださったのです。私たち一人一人は、自分の力で何とかして責任を持とう、責任がとれないことはしてはいけないと思っています。しかしどんなに誠実に思っても、それを全うする力がない。主イエスを十字架につけてしまう力と同質のものが私たちの中に抜き去りがたく棲みついているのです。主イエスが十字架に向かってくださったことによって、私たちの中に孕んでいるそういう矛盾が明らかにされたのでした。十字架の前では私たちはそこにうずくまることさえできず、こそこそと隠れ家を求めてうごめくような生き方しかできない。
 でも、復活の主はそういう私たちに平安を与えてくださるのです。平和を与えてくださるのです。そして、おどろくべき事に主はこの平安を約束してくださり、父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。すぐ派遣の命令をしておられる。人間的な思いからすれば、どうして十字架のあの場面の時にいなくなってしまったのか、と責めを連想します。しかし主はこの弟子たちに聖霊の息吹を吹きかけて、罪の赦しの力を、神様の権威、この聖霊の力を、教会に託してくださったのです。私たちはこの平安あれという主の言葉に身を委ねるべきです。どんなに私たちがあの弟子たちと一緒で、矛盾をかかえ、罪を抱え、様々なくらい過去や、陰を抱えていても今朝私たちはこの平安あれという、この言葉の中に私たちは飛び込んでいくことができる。これが復活の主が私たちに働きかけてくださっている、御力そのものなのです。
 私たちは新しい年度の歩みをはじめました。教会総会も既にいたしました。キリストに向かって成長する、というこの言葉を今年度の目標の言葉として、私たちは与えられました。いろいろな艱難や、苦悩、試練がなくなるわけではありません。でも平安あれというこの主の言葉が勝っているのです。主イエスを十字架に追いやってしまったその力が最終的な力ではなく、その力は復活の力によって塗り替えられた。死の力が勝利に飲み込まれてしまった。
 その同じ力が主イエスから聖霊の息吹をいただく私たち一人一人に働いているのです。死の力はもはや私たちを支配しない。それが様々な誘惑や、不安に打ち勝って、最終的に私たちに平安をたもう主の確実な約束の言葉なのであります。