礼拝説教 2007年2月4日

2007年2月4日 「羊のために命を捨てる羊飼い」
エレミヤ書 31:10~14  ヨハネによる福音書 10:7~18
古屋 治雄牧師
 今朝与えられています御言葉は、先週に引き続き羊と羊飼いについての譬えです。羊とは、私たち一人一人が神様の前に羊とされている、ということです。イエス様は、直接的には弟子たちや当時のユダヤ社会の一人一人を指して言われたのでしょう。しかし、またこの羊飼いの話を聞くすべての人に、「あなたは主によって養われる羊の一人です。」と呼びかけているのです。
 羊飼いとは神様のことであり、主イエスキリストご自身のことを指しています。そして、イエス様はこの話をされた時に、ユダヤの指導者たちが本当に正しい意味で羊飼いとしての責任を負うことができているかということを鋭く批判し、指摘するためにこのことをお語りになりました。本当の羊飼いたる神様のみ旨をしっかり受け止め、神様ご自身が世話をしてくださるであろう、その世話を代わって指導者たちが本当にしているか、そのことを指摘されました。
 この羊と羊飼いの話を、ヨハネによる福音書10章から聞きますと、とても和やかな心あたたまる話として受け止める傾向があります。しかし、本当に羊飼いの責任を正しく果たしているか、というこのユダヤの指導者たちに対する厳しい指摘を、私たちは初めからよくみないで聞くことは控えなければならないと思います。
 今朝、聖歌隊の皆さんが、この詩編23編の歌を奉仕して下さいました。神様に養われる羊たち一人一人が、その時にどんなに豊かな命に生きることができるか。これは聖書の教えの基本的なところ、代表的なところと言ってよいでしょう。
 6節以前でも、神様またイエス様によって本当の世話を受けている羊はどんなに安全で、安心して様々なことがあっても守られて生きることができる。そういう光景を私たちは聞くことができます。
 私たちの日常生活の中で、家庭や昨今大変心を痛めております学校でのこと、地域社会のことなど本当によりよい世話がなされているか。本当に心の込められた世話を受けなくては生きていけない一人一人が、子どもであっても老人であっても、本当によりよい世話を受けることができているか。そのことを思うと私たちは胸が痛くなります。
 また他のことではなく、教会のことで適切な牧会がなされているか、世話がなされているか。教職が牧師という名前のごとくその役割を担っておりますが、教会全体として、教会の群れが良き養いと世話を提供し、また受けることができているか。そのことが私たちにも問われて参ります。牧師はその責任を重く担うのです。
 主イエスは、ユダヤ社会の中でそのことが本当に適えられていない。福音書の他の箇所で、飼うもののない羊のように多くの民が迷い出ている、と主は語っておられます。
 もう少しこの譬えがでてくる経緯をたどりますと、生まれつき目が見えず不自由を被っていた人が、イエス様に出会って見えるようになりました。単に視力を回復することができたということにとどまらず、この人を支配していた因果応報の重い重い苦悩から解き放たれようとしていたのです。しかし、この人を取り巻いているユダヤ社会はこういう重荷を担っている人に対し、適切な世話、ケアをすることができなかった。イエス様のこの出来事によってそのことが明らかにされたのです。
 イエス様は「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」 牧歌的な羊と羊飼い、あの詩編23編のような内容が確かにこの前後に歌われています。しかし、イエス様はそれを打ち消すかのように、厳しい内容をお語りになりました。これは指導者たちだけにとどまっていません。18節に続く19節の所を見ますと、ユダヤ人たちがでてきます。その中心には指導者が意識されているでしょう。しかし指導者たちだけではないと言わなければなりません。この奇跡を目の当たりにした当時のユダヤ社会の人々も、たとえ指導者たちが自分の欲得で、自分の名誉を守るためにあまりいいことを言わないと感じていても、それを見抜き、神様の恵が現されたと確信することはできなかったのです。そしてこの出来事の後に論争が起こり、大変気まずい雰囲気が充ち、イエス様を追い出してしまったのです。
 指導者たちだけでなくて、当時のユダヤ社会が神様によってもたらされ、約束されている世話、ケアが大事にされず、むしろ摘み取られてしまっているのです。そしてそのような中でイエス様は7節で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」このようにお語りになりました。
 私たちは、自分に敵対する雰囲気が自分の周りにはっきり見て取れる中では、平常心を失い、何をなさなければならないか、どういう役割を担っているかを正しく受け止めることができず、感情的に対応してしまうのではないかと思います。しかし、イエス様はこのように敵対する雰囲気が取り巻いている、そのような中で神様の御子としてのお働きをはっきりと語り、そして敵対する人に神様の視点から対峙しておられます。そして、そこでは反論が最終的な目的ではなく、イエス様は何を大切な使命として神様から託されているか、そのところに立ってこの羊と羊飼いの譬えを話されていることがわかるのです。
 11節の御言葉を先ほど読みましたが、その前に10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」これは、奇跡に預かった目の不自由な人だけでなく、イエス様のお働きを正しく受け止めることができないユダヤの人々、また反感を燃やしイエス様を追い出そうと企てている指導者たちに、わたしが来たのは羊が命を受けるためである。そして、その羊の中から決して除外されていないことがここに宣言されているのです。
 今日の7節以下のところでイエス様は、単なる仕事の意味の羊飼いではなく、羊のためには命を捨てる、とこのことを4回繰り返し言われました。実際に羊飼いの生活で、羊を守るために狼などの野獣が襲ってきた時、危険を承知で羊を守るということは羊飼いの役割として含まれていたでしょう。しかしイエス様はここで、そのようなことを想像し危険に遭遇することもあるから、そのような時には命の危険にさらされても羊を守らなければならないとおっしゃったのでしょうか。いいえ、そうではありません。
 今日の御言葉の後半部分で、17節「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」このことも語られており、さらに18節「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」自分でそれを捨てるというところは、口語訳では自分から捨てると訳されていました。自分から捨てるということは、危険云々という枠を越え、主イエスのはっきりとした意志が表明されています。それは、私たちはもう知っていますが、十字架にかかってくださる決意に他なりません。
 羊が命を豊かに受けるために、イエス様が命を捨ててくださる。これも、牧草と水があれば羊は大丈夫、危険が襲ってきたら、狼などの野獣を撃退する、という日常の羊の生活に特に問題がなければよいことにとどまらず、命の中身が問われ、命を豊かに受ける、羊がどういう羊飼いに飼われ、羊がどういう生き方をするか、そこに目が向けられていることに気づかされるのであります。
 名前を呼んでくださり、先頭に立ってくださり、まっすぐ導いてくださって羊がその世話の中で歩む。そのような羊とされている私たちは、主に養われる羊としてどういう命に生きるべきなのでありましょうか。
 先週また今日の冒頭にも門という言葉がありました。7節「わたしは羊の門である。」9節にも「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」 羊と羊飼いの話の中で、この門という言葉がでてきているのは意外と見落とされているのではないでしょうか。しかしイエス様は繰り返し、門から羊飼いが入って世話をするために導き出すと言われています。
 イエス様の時代、実際に羊飼いたちは放牧をし、夜は囲いを作りその中に羊を導き入れ、野獣などに襲われないようにし、またその門に門番をつけ羊を守っていました。朝になるとその門を開け羊の世話をする。そういう生活だったようです。ここには二つのことが語られています。一つ目は、イエス様は、わたし自身が門であり、二つめは、また門を通って導き出す羊飼いであると言われていることです。この両者は勿論、内容的には分けられない結びつきを持っていると思います。イエス様という神様の独り子が私たちを救って下さるために通る門になっていてくださるということです。この門を通る以外に私たちは羊として、神様が愛してくださる一人一人としてその生活を進めていくことができない。そしてその導きを羊飼いとして主イエスが導いて下さるのです。
 この羊飼いの譬え話に入る前、ファリサイ人との論争のところで、9章の39節、イエス様は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と言われました。しかし他方、しばしばヨハネによる福音書の大事な御言葉として指摘されています、3章の17節では、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と主は言われました。一方において、世を裁くために来た、しかし同じこの聖書の中に、裁くためではなく救うためだと語っておられます。この神様の裁きということを、私たちがこのヨハネによる福音書を通して知らされるときに、イエス様ご自身が門であるとおっしゃっていることと、イエス様は門を通って導いて下さる羊飼いであるという、このことが深く結びついている、関係していると思うのです。
 裁くためなのか、裁かないためなのか。いったいどちらか。そのように申しますならば、それは両方である。あえて言うならばそのように言わなければならないでしょう。しかし、ここに密接なつながりがあります。イエス様がこの世に来られて、この人間世界の中にどういうことが起こっているか、神の民であろうとそうでなかろうと、どういうことが起こっているか。どんなに人間が手をつくろってごまかしても、そこにはごまかしきれない現実がある。どうしても神に敵対し、その生活を進めよう、為そう、世の現実をつくろうとする動きがある。神の民の中にもそれはあるのです。イエス様が来られたことにより、その実体が明らかにされました。神様の裁きによりこの地上になにがあるか。そこには罪の現実があるということが明らかにされました。しかし、そのことを神様は明らかにされますが、その責任が本来その人間一人一人に帰せられてしかるべき、にも関わらず、それを御子自身が、人間一人一人に罪の責任を帰すのではなく、その責任を御子自身が引き受けてくださった。だから人間は自分の罪の責任を自分で負わなくてはいけないことを神様によって赦されている。そのことから解き放たれている。自分の責任を自分で負わなくてすんでいるのです。これはもはや私たちは神様から裁かれているのではないことを示しています。神の裁きがうやむやにされたり、為されなかったわけではない。イエス様がご自分の命を捨てるということにおいて、神様の裁きがそこに厳然と為される。この点において私たちも裁かれ、しかし私たちは裁かれていない。裁かれない。その救いの道が、イエス・キリストという御子のこの通路を通って私たちの中にはっきりと示されている。これが私たちの信仰の根幹であります。
 イエス様は羊飼いの話をされ、ご自分の命を捨てる。羊飼いは命を捨てる。ご自分から捨てるとおっしゃっています。そのことによって私たちは神様に断罪され、罪人として滅ぼされて生きるのではない道が示され、通ることができるその門が開かれている。そのような意味でイエス様は、わたしは羊の門である、このようにおっしゃっているのです。私たちは救いの道がここに開かれていることを新たに受け止め、ただ単にそこにこういう可能性がありますよということが何か哲学的な論理として、そこに開陳されているのではなく、御声をもって私たちを導き、名前を呼んで呼び出し、その羊のために命をかけて私たちを守って下さる、そのような方として、イエス様は私たちの羊飼いとなってくださったのです。
 今、私たちは年度の顧みをするときでもあります。新たな顧みをなしつつ、私たちの歩みをつづけていく者とされています。またイエス様は16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」と、お語りになられました。主の世話を受ける羊は、教会に来ている私たちだけではない。教会に来ていない私たちの家族や日頃あまりつきあいをしていない近所の人、そして仕事の関係でやりとりをしている人々もこの羊の中に招かれています。またそれだけではなく、私たちの知らない人々をも、イエス様ご自身はこの囲いの中に入っていない羊といっておられます。この地上に生きているすべての人で、このイエス様の言葉から除外される人はいないのです。非難されているファリサイ人もこの譬えの中の大切な一人として、養われるべき羊として、イエス様はその中に含んでおられます。
 私たちの教会が、私たち自身がしっかりイエス様に養われ、しっかりイエス様について行く。そのことも大切な事でありましょう。そしてそれは、まだこの囲いにいない羊、そういう人にまで私たちは思いをはせ、私たちの信仰生活を新たな展望にすえていく。イエス様は、このことをも譬えの中で私たちに呼びかけられておられるのです。教会の使命というとなにか大きなスローガンのようになってしまうかもしれません。しかし、私たちは身近なところに、共に主に養われる羊として招かれている一人一人がいるということを覚え、共に新しい活動、新しい教会生活へと進む者になりたいと思います。