礼拝説教 2007年12月30日

2007年12月30日 「へりくだった主」
イザヤ書 52:13~15
フィリピの信徒への手紙 2:1~11
矢部 節 副牧師
 クリスマスおめでとうございます。御子の誕生を喜ぶ祝いのときを過ごしています。このクリスマスの祝いの中で新しい年を迎えます。御子が来てくださったことで私たちが新しくされるのです。神の救いがこの地に来たことで神様との関係が新しくされました。新しさの中で新しい年に臨むのです。
 今日の御言葉はパウロが獄中からフィリピの信徒へ書き送った手紙です。しかしこの手紙は喜びの手紙とも呼ばれます。それは喜ぶという言葉が繰り返し出てくるからです。しかしパウロ自身は獄中にあって一般的な考え方でいうならばけっして喜べない状況にありました。つらい状況、苦しい状況にあってしかしそれでもなおも喜びに満たされている。
 このことは私たちとも重なってくるのではないでしょうか。置かれている状況は一人一人異なりますけれども、嬉しいこともあった、悲しいこともあった、様々な人がいると思いますけれども、しかし社会全体として決して明るくない。暗い世相、まさに闇といってもよいような、そういう時代で、しかしその闇に光が輝いている。そう聖書は語るのです。
 私たちも親しい人を失った悲しみの中にある、そういう中にあってなおも神の慰めがあり、そこに光が注がれている。そしてキリストによる希望の中に生きている。私たちはここに様々な出来事があって悲しむために集っているのではありません。まさに喜ぶためにこの会堂に集まってきたのです。
 さてパウロが獄中にあって喜んでいられるのは、それは主イエス・キリストのゆえです。さらにパウロは、その喜びが満ち溢れるようにフィリピの信徒に信仰の戦いを戦いぬくように、と奨めています。
 戦い、そうはいっても、それは信仰の戦いです。私たちが敵と聞くときには、つい自分に対立するものを思い浮かべがちです。
 もちろんパウロにしましても、コリントの信徒にしましても外からの敵に向き合わずにはいられなかったでしょう。しかしそういう状況にあって、あっても、まさにそういうときにこそ、信仰を持ってそういう敵と向き合うのです。そして信仰を持って敵と向き合おうとするときに、まず何よりも向き合わなければならないのが、実は、外の敵ではなくて、内なる敵である。つまり自分自身であるということなのです。
 今日の御言葉は、神様から豊かに恵みを受けているのだから、私たちは主イエス・キリストにならって、へりくだって他の人と接すること、そういうことができるようになるのだ、とパウロはへりくだることを勧めています。
 そして、その根拠、基礎となるのが主イエス・キリストによる救いだというのです。それは、神に等しい者が人間になるということによって実現したのです。このことがまさに、クリスマスの出来事です。
 私たちはアドベントのときから、教会のクリスマスこそ本当のクリスマスである。そのように御言葉を聞いてきました。本日の個所、とくに6節以下はそのことと深く関わって、集中的に語られている部分でしょう。
 パウロが私たちにへりくだるように勧めていることの理由が、主イエス・キリストの姿によって示されているのです。そのことを今日の聖書の個所に見ていきたいと思います。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」
 キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、このように聞くと、ふと思い出されるのは、礼拝の終わりに、この教会から送り出される言葉として、コリントの信徒への手紙の2のいちばん締めくくりの言葉を思い出されるのではないかと思います。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この祝祷と呼ばれる言葉ですけれども、この祝福の言葉と深い関係があります。キリスト、愛、霊、こう言われていますけれども、この「愛」というのはコリントの方では神の愛と言われている言葉です。つまり、ここ、このフィリピの個所でも、神の愛と理解していいと思います。
 ですから愛の慰めというのは神様の愛の慰め、そう理解することができます。ですからここでも、キリスト・神・聖霊、という三位一体的な表現として理解することができるのではないかと思います。
 そして、コリントの締めくくりの祝福の言葉であるように、ここでも神様からの祝福というのが念頭にあるのです。つまりここは神様から祝福を受けているのだから、そういう意味がこめられています。
 確かに文章としては「なになにあるなら」という仮定の形で語られては、います。しかしここは、むしろ「これこれしかじかであるのだから」つまり神様からこういう恵みが与えられているのだから、と読んだ方がパウロの思いがよく伝わるでしょう。こうして神様から祝福を受けているのだから、あなたたちも同じ思いになるように、同じ愛を抱くように、心を合わせるように、思いをひとつにするように、このようにパウロは言葉を重ねていくのです。
 パウロはフィリピの教会がひとつになるように願っています。そして同じ愛を抱くことができるのはもちろん神様の愛を受けているからです。神様から豊かに恵みを受けていることが、この第1節で語られていて、そしてそういう神様からの恵みを受けているなら、この「なら」というのが「受けているのだから」つまりあなたたちも同じ愛を抱くことができるのだ、そのようにパウロは言っているのです。
 そして、そのことがパウロの喜びをも満たすことになる。そしてパウロの喜び、というのは、もちろんこれは救いの喜びなのです。主イエス・キリストが再び来てくださるときに実現するであろう、あの救いの喜び、コリントの人々が神様の愛に生かされて、へりくだって、一致することで、そのことを通してパウロにとっての救いの希望、その希望がますます完全なものとなっていく。そういう思いで語られているのです。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。」
 利己心や虚栄心からするのではなく、これはその前に言われている、同じ思いを抱くように、ということです。そして、この同じ思いを抱くということが、ここではへりくだり、謙遜という、そういう言葉で表されています。互いに相手を自分より優れた者と考えなさい、というこの言葉、これはローマの信徒への手紙でも同じように出てくる言葉です。
 ですからパウロにとって、相手を自分より優れた者と考える、つまりへりくだる、謙遜になるということが、教会が一致するための条件として、非常に切実な願いだった、そうに違いないのです。ですから繰り返し、あの教会にも、この教会にも伝えたいのです、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 私たちはどうしても自己中心的になりがちです。しかしそういう私たちが、そういう私たちも神様の愛を受けているのだから、その自己中心的な思いを越えて、他の人へも心を向けていくことができる。そういうのです。
 そして互いにこのことを心がけることで、教会がひとつになるように、そのようにパウロはいうのです。
 私たちにへりくだるように、とパウロが勧めるとき、そこには私たちが一般にへりくだる、あるいは謙遜するということとは、もちろん重なる部分も多いですけれども、少しニュアンスが違うでしょう。
 それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストにもみられる。そうは言っています。しかし、ここの表現というのは、実は少し難しい内容かもしれません。もともとの原文では、それはキリスト・イエスにおいても、となっているので、このあとの動詞というのがありませんから、これは、その動詞をどう補うか少し解釈が分かれるかもしれません。
 2つぐらいの理解があると思うんですけれども、しかしどちらとも取れる、おそらくどちらも正しいのだと思います。ひとつはキリスト・イエスにおける救いの出来事によって、このことが根拠づけられる、そういう意味です。
 それから、もう一方で別の読みとしましては、あなたたちも、こういう恵みを与えられているのだから、キリストと同じように生きることができる。そういう風にも読めるところです。
 このことを念頭において、6節以下を読みたいと思います。
 この6節からの部分、翻訳ではニュアンスが表れませんけれども、実は詩の形をしている、そういう部分ですので、しばしばキリスト賛歌と呼ばれています。このキリスト賛歌と呼ばれる部分、これはたとえば、コリントの信徒への手紙の1の15章に出てくるような信仰告白の言葉と同様に、すでに知られていた、そういう言葉です。
 コリントの方では、はっきりとパウロが伝えられていることを言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」こう言っています。
 ここでは、そういう風には言っていませんけれども、しかしここは、明らかに、パウロが自分で語っている言葉ではなくて、すでに受け継いできている言葉をここで、その理由として語っているのです。
 そしてその裏づけとして語っているという点では、その点でここにも初期の教会にも伝えられている信仰告白のひとつといってもいいのではないかと思います。
 ただ、この個所に1箇所、恐らくパウロが付け加えたであろうという部分があります。それは十字架の死に至るまで、という言葉です。
 この部分がこれが整った詩の形をしている、その詩の形を崩しているので、たぶん後から加えられた部分であろうという風に推測されるわけですけれども、しかし、こういう風な付け加えによって、信仰告白の言葉というのも神学的に整えられていったのではないかと思います。
 私たちが礼拝で使徒信条を告白していますけれども、それも実はもっと素朴なものから、伝えられていく中で、少しづつ神学的にも整えられていったのです。
 その大もとの形は、しかしすでにもう2世紀くらいには整っていましたし、さらにその原型というのは、さきほどもちょっと触れましたけれども、コリントの信徒の手紙にも見られるように、すでに聖書の時代までさかのぼる、そういうものでもあるのです。
 主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ…、このように使徒信条では言っていますけれども、ここの部分、まさに主イエス・キリストが人として生まれた、このことを神学的に語っている部分というのが、このキリスト賛歌です。
 このキリスト賛歌と呼ばれる6節以下、すでに伝えられているのではないか、というのは、また別の理由からでも推測されます。それはパウロの手紙にあまり出てこない言葉が使われているのです。つまりパウロらしくない表現が使われているのです。だから、この部分、独特の言い回しというのがあります。
 たとえば6節の部分で「キリストは神の身分でありながら」ここは実は直訳しますと、神の形であったが、ということです。ただこの「形]という表現、かなり誤解を招きそうな言葉でもあるので、昔から様々な解釈がなされてきました。
 新共同訳も誤解を招かれないようにと、「身分」と訳しているわけでありますけれども、しかし実は元々のギリシャ語に身分という意味がないので、少し無理のある訳ではあるのですけれども、解釈としては、おそらくこちらの方が真実に近いでしょう。
 本来、どういうニュアンスがあるのか、というのは様々な議論がありますけれども、しかしここの個所、神と等しいもの、と、こう言いかえられているので、むしろ形という言葉、ここでは身分と訳されていますけれども、そういう言葉にとらわれない方がいいでしょう。それは、この後に出てくる「僕の身分」という表現のところも、ここも、もともとは僕の形という言葉ですけれども、そこも同様でしょう。その「形」という言葉にこだわってしまいますと、キリストが形だけ人間になったのか、そう解釈する人も出てくる。
 しかし、もちろんそういう誤解というのはギリシャ世界、ヘレニズムの中にも救済神話というのがありますけれども、その中でも神様というのは人間の形をとることはあっても、そういう神様というのは死ぬ必要はないわけだし、死ぬはずのないものです。
 しかし、ここでは死に至るまで、といわれているのです。つまり死すべき存在としての人間になられた。だから単なる形だけではなくて、まさに人間になられた、そういうことが語られているのです。
 神と等しいもの、これはまさに本質的にといっていいと思いますけれども、神と本質的に等しい、そういうお方がその等しいということにとどまりつづける、この等しいことを保ちつづけることをせずに、自分を無に、つまり神様に等しくあることを、放棄してしまう、そして僕、つまり人間となった、というのです。
 それは自分を低くすることであり、そしてそのことが死に至るまで従順だった、そうこのキリスト賛歌は言うのです。
 それは単に人間の姿をとった、というのではなくて、まさに死ぬべき人間として、また苦しみをも伴って、人間として徹底的に歩まれた、ということです。そこにパウロはさらに十字架の死に至るまで、この「十字架」という言葉をつけくわえます。
 このクリスマスの時期に、十字架を思う。これは私がかつて大学で習ったある先生が、クリスマスの日にはバッハのマタイ受難曲を聞きながら、ディケンズの「クリスマス・キャロル」を読むことにしている。そういった先生がいるのです。クリスマスの時期に、とくに受難の曲を聞く、というのです。
 クリスマスが主イエスの誕生を祝う日として、喜ばしい、その喜びというのは実はキリストの十字架の死に至るその苦しみによって、まさに十字架上で死なれることによって、私たちの罪が許されているからです。
 この私たちが許されている、その許された罪の重さ、それが十字架の上でのキリストの苦しみと等しいのです。
 それほどに重い罪を許されているからこそ、私たちの救いが喜ばしいのです。
 このクリスマスの時期、バッハを聞くのであれば、受難曲ではなくて、クリスマス・オラトリオを聞きたいものです。そういう人も多いでしょう。25日26日27日と、このオラトリオでは第1部第2部第3部とさらに元旦の第4部まで、ルカの物語が歌われます。そして新年に入ってからの最初の日曜日に第5部、それから公現日の6日に第6部、これはマタイの物語が歌われます。このバッハ、実はパウロと同じように十字架ということを非常に重視していました。
 バッハというのは、ルター派の信仰を持っていた人ですけれども、彼は神様を賛美するために作曲いたしました。もちろんクラシックの作曲家たちというのは、ヨーロッパはキリスト教文化ですから、宗教曲も書くという人は多くいるかもしれません。しかしバッハというのは自分の書く曲をことごとく神様にささげているのです。
 それはカンタータのような聖書の言葉に基づいているようなそういう声楽曲だけではなくて、歌詞のないオルガン曲とかハープシコードの曲とか協奏曲もそうですし無伴奏バイオリン・ソナタにしても、そういうすべての曲を神様を賛美するために書いた。神様の栄光を表すために作曲したのです。ですから、バッハは自分の自筆の楽譜には、"SDG"という、そういう文字が記されています。ソリ・デオ・グロリアの頭文字ですけれども、これは、ただ神のみに栄光あれ、クリスマスのルカの天使の言葉が響きあっていますけれども、そういう書き込みをしています。
 そして、このバッハの信仰告白ともいえるのが、あの最晩年にかかれたミサのクレド。まさにニケア信条、信仰告白です。そしてこれがまさにバッハの白鳥の歌といいますか、最後に完成された作品です。バッハの作品の集大成でもあるとともに、自分の信仰告白としての、自分の神学の、信仰の集大成といってもいいでしょう。クレドというのは、これは文字通り信仰、信じるという言葉ですので、信仰告白といっていいと思いますけれども、ここで使われている言葉というのは、これは教会の歴史で言いますと、381年のコンスタンチノポリス会議という教会会議で制定されたニカイア・コンスタンチノポリス信条です。よく略してニカイア信条といわれている言葉です。
 私たちが毎週礼拝で告白しています使徒信条とともに教会が重んじてきた信仰告白のひとつです。このニカイア信条、クリスマスにかかわる部分では、こういう訳になると思うんですけれども、主は私たち人間のために、またこの私たちの救いのために、天から下ってきて、聖霊によって乙女マリアより肉体をとって人となり、このように続いていきます。つまり使徒信条よりも、もう少し神学的に整えられて詳しくなっているのです。乙女マリアより肉体を取って、このように言われている。
 肉体を取る、私たちの教会の用語で言いますと受肉ということです。ルター派であったバッハが、ミサ曲を書いたというのは不思議なことかもしれません。ミサというのはカトリックの礼拝だからです。もちろん部分部分は、哀れみを請う作品とか神様をほめたたえる曲とか、グロリアとかキリエとか別々にはバッハも作曲していましたけれども、これを最後にひとつにまとめた、ミサの形にしたというのは、おそらくこれはバッハのもうひとつ切なる願いがあったからです。
 ルター派がカトリックから分かれてしまった。しかしバッハの中にはエキュメニカルというか、教会の一致を求める、そういう願いがあったに違いないのです。教会の一致を願って、ルター派でありながら、ミサを書いた、そして、そのクレドにおいて、信仰告白において、まさにそのバッハの神学と言うのが、ひとつの美意識としても表れています。とても美しい形をしているのです。これは曲が美しいというだけではなくて、構造もとても美しいのです。それは、まさに聖書の言葉のようにです。
 聖書の言葉、本日のキリスト賛歌でも、前半と後半、前半がへりくだりに対して、後半が上がる、下ってきて上っていくという形で対応していますけれども、聖書の中には、そういう、前後対称といいますか、中心を囲むように前と後が包んでいくような形、対称の形に配置されている個所というのが、何箇所もでてきます。それと同じようなことを、バッハがこの信仰告白の部分でもやっているのです。
 そしてバッハははじめ8つの部分に、この信仰告白を8つのパートに分けて作曲しました。真ん中の部分に十字架と復活を置いて、4曲目5曲目ですね、それをはさむように、前のところでは唯一の主イエス・キリストていう部分から始まる部分、そういうデュエットの部分をおいて、その後ろの部分には、これはアリアですけれども、また聖霊を信じるという部分がはさむ形で、その前にまた、その前に、その前と後に、その前と後に、という形で、ちょうど前後対称な形に作っています。しかし作り上げた後にバッハは、さらに、まさに本当に最晩年、死の前の年ですけれども、1曲付け加えています。それが実はまさに受肉に関する部分なのです。十字架につけられる、その直前の部分、つまり主イエスについて語られているあのデュエットの部分を2つに分けて、そして受肉に入る前までの歌詞を、もういっぺんデュエットの部分につけなおして、そして受肉の部分の歌詞に新たに合唱曲を作曲したのです。
 ですからこの部分が、まさにバッハの最後の完成した部分になるのですけれども、実はこのことによって、信仰告白の部分が、さっき8つといいましたけれども、ひとつ増えたので9つの部分になりました。
 そしてその真ん中の3曲が、受肉、十字架、復活となったのです。まさにこのクレド9つの部分の真ん中に十字架がくる。そのように配置されているのです。
 ですからバッハの信仰にとって、まさにそのど真ん中に十字架が建っているのです。その十字架を中心において、その前に新しく付け足したわけですけれども、デュエットからの歌詞を分けて独立させることによって、この実は受肉の部分も非常に大切な部分だ、そう、バッハは理解したに違いないのです。
 ですから最後に、最後の最後に、おそらくそのときにはもうバッハは視力が悪くなっていて、楽譜を書くのも大変だった、おそらく自分の死をも、感じ取っていた、そういう時期に最後の力を振り絞って書いた部分というのが、この受肉に関する部分だったのです。
 そして、その受肉の部分を完成させることによって、十字架を真ん中に据えることになった。これはパウロがすでに伝えられているあのキリスト賛歌に、十字架の死に至るまで、そう書き加えたことにも通じるでしょう。
 主イエス・キリストが受肉された、人間となられた、それは十字架で死ぬためでした。それは私たちの罪をあがなうためでした。主イエス・キリスト御自身は、罪は犯されませんでしたけれども、人間として生き、様々な苦しみを味わわれ、そして罪人とともに生きたのです。罪人とともに様々な苦しみを味わわれて、そして最後に私たちすべての罪を背負って、死なれたのです。
 しかしそれだけでは終わりませんでした。きょうのキリスト賛歌ではその後半の部分が、神はキリストを高く挙げ、こう言われています。このキリスト賛歌では、それを具体的には復活という言葉では表していませんけれども、あのコリントの15章に伝えられている信仰告白では、はっきりとその復活について語っています。
 きょうのキリスト賛歌では、むしろ、こういう先ほどきれいな形といいましたけれども、前半のへりくだり、神様がこの地に下りてくださったことに対して、後半が高く挙げられる、こういう形で語られているわけですけれども、このことからパウロがキリストにならって、私たちがへりくだることで、私たちは高く挙げられる、そのようにも一見思われるかもしれません。もちろん結果としては、そうなると言ってもいいかもしれませんけれども、しかしへりくだるといっても、先ほどニュアンスが違うといいましたけれども、神様が人間になるというのと、私たちがへりくだるというのとは、やはり大きな隔たりがあります。
 むしろここでは主イエス・キリストがへりくだって人間になってくださった。つまり私たちが、その主イエス・キリストのへりくだりによって救われている。そこにこそ重点があるでしょう。
 私たちが救われている、主イエス・キリストの恵みのゆえに、私たちはその恵みの中で私たちもへりくだることができる、そしてそのことを通して、教会も一致へと導かれていく、教会の一致がもたらされるのだ。
 さらに言うならば、へりくだることによって、私たちに主イエス・キリストの十字架の意味が、より深くわかってくる。へりくだることを通して、救いの恵みをよりいっそう深く実感することができる。そういうことでもあるでしょう。
 まさに、そのことを通して私たちは主イエス・キリストに救われている恵みを深く知ることができるのです。