礼拝説教 2007年10月21日

2007年10月21日 「わたしの国は、この世には属していない」
詩編 93:1~5  ヨハネによる福音書 18:28~38
古屋 治雄 牧師
 今朝は10月の第3の週の主の日でありまして、来週からクリスマスの方から教会の暦を覚える時となります。クリスマスの本当の意味の触れるというのはイエス様の十字架の出来事とつながってくる。そのつながりを、見ずしてクリスマスの本当の喜びを知ることはできないと思います。
 18章から大変緊迫した場面が続いておりまして、今日の所もそのような部分であります。今日の聖書の箇所をみますと、イエス様はすでに逮捕されているのですが、カイアファのところから総督官邸に連れて行かれた。ここで場所が変わっております。
 今日の出来事の前の所に二つ注目すべきところがあると思います。大祭司のところに連れて行かれ、尋問されたのですが、大祭司はどういう罪状でイエス様を訴えているのか。そのところを本来ならば確認する必要があるでしょう。しかしどうもそういうところは見当たらないのです。本来ならばユダヤ当局の指導者たちが、自分たちの信仰の真実にかけて、例えそれが問題であっても自分たちの信じてきた神様の真理、それに照らし合わせて、「イエスはこういう風に問題だ。筋が通っていない」と明らかにすべきです。ユダヤ社会がもっていた神様を神様とする真実、それがこの場面の中でないがしろにされ、崩されていると見ることができるのです。
 もう一つこれはペトロのことです。ペトロはイエス様を守るために勇猛かかんに、剣を抜き、大祭司の僕に斬りかかって、その耳を切り落とした。ここに、第一番の弟子といってもよいペトロのひとりの人間としての誠実さ、真実が現されているとみることができあす。今日の箇所の前までに都合3回「ちがう、イエス様のことなど知らない」と否定するのです。弟子としてのペトロの真実はここに崩壊しています。
 こういう経緯があって今日のピラトとのやりとりの場面に移っています。
 権力者は王という言葉に敏感だと思います。聞き逃すことができない言葉だと思います。この出来事に至るまでにイエス様がご自分で何か不穏当な出来事をなし、自分でも王だとおっしゃった、そのようなことはないのです。ピラトは本能的に「お前はユダヤ人の王なのか」という風に尋ねたのであります。ピラトが理解している王、その支配とはどういうものであったでしょうか。ローマの平和という言葉がありますが、それは本当の平和ではなく、有無を言わせず、反抗するする力がもしも起こったら、すぐに力によって押さえる支配を意味していました。
 イエス様は、「ユダヤ人の王なのか。」という言葉に対して「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
 この世に属していないということは、この世的な発想で権力、力の行使ということを主ご自身は全く考えていない。まったく違うところから権力、支配、本当の支配ということを現そうとしておられるのです。さらに主イエスは言われました。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
 イエス様がここで教えてまた現して下さっている王の支配とは真理に関わるというのです。イエス様は真理ということを抜きにして、王様の力ということを語ることにいかないと言われるのです。
 イエス様がおっしゃっているのは人間の真心ではなくて、神様の真心、神様の真心がこの地上に現される。力に対して力ではなくて、経済的であろうと、政治的であろうと、そういう力ではなくて、神様の真心がこの地上に現されるそういう支配をイエス様は現そうとしてくださった。
 大変興味深いのですが、今日のこの出来事はピラトがイエス様に「おまえはユダヤ人の王なのか」このように呼びかけました。そして、やり取りが続き、今日の一番最後では、ピラトはイエス様に「真理とは何か。」という風に問いかけています。地上で力を発揮しよう。力に対しては力で望まざるをえない。小さな範囲でも大きな範囲でも、そういう力が私たちを取り囲んでいます。私たちの日常生活の中でも、至る所で起こっている。そのひとつひとつに対して、イエス様は私たちに真理とは何か。本当の真理とは何なのか。ということを問いかける者へと主は私たちを変えておられるのです。
 真理が主イエスによって恵となり命となり、力におびえたり、力を発揮して、人々を押さえつけたりする、そういうことから解放されて、共に神様の命に生き、神様の恵に生きる。そのような神様のご支配、神様の王国がイエス様を通して私たちに注がれているのです。