2006年11月19日 「わたしは世の光である」イザヤ書 60:1-4ヨハネによる福音書 8:12-20古屋 治雄牧師
徐々に日が短くなっていることに気づかされます。九州の地に参りまして、関東に比べると西寄りになっておりますので、日没の時刻は30分くらい違うわけでありますが、だんだん日が短くなっていることを実感しています。
クリスマスのことをお祈りの中でも覚えましたが、12月25日という日にちは、冬至、つまり一番、陽が短くなる時からやがてだんだん陽が伸びていく、その時にクリスマスが祝われてきました。
クリスマスのことをお祈りの中でも覚えましたが、12月25日という日にちは、冬至、つまり一番、陽が短くなる時からやがてだんだん陽が伸びていく、その時にクリスマスが祝われてきました。
教会の暦では今日のこの主の日は降誕前第6主日です。降誕というのは勿論イエス様のご降誕のことですが、このことを視野に入れて教会の暦も覚えられてきました。
町では教会よりも早くクリスマスということが語られ、また目に見える形での準備が整いつつあるようでありますが、私たちの教会でも待降節に入る前にクリスマスの飾り付けや、いろいろな配布物の準備が進められているところです。
クリスマスが、光りと結び付けられていることには深い意味があります。「闇の中に光りが輝いた」。闇の世界は死を意味する場合があります。主イエスの到来によって死の世界が、ただ単に明るくなってよかった、ということではなく、新しい命に変えられ、単に生きているというのではなく、自分が生きていることを喜びそのことを皆で分かち合い、またそれが神様に向けられて賛美になっていくような希望に変えられるのです。そういうクリスマスが私たちに今年到来しているのです。
ヨハネの福音書には、マタイ福音書やルカ福音書が伝えるクリスマスの物語は伝えられておりません。その代わりに福音書の初めの所に、光りについての賛美ともいえる言葉が伝えられています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。これはヨハネの福音書、1章の初めのところです。マタイ、ルカのようなかたちではありませんがヨハネの福音書は独自のかたちで、クリスマスの出来事をその冒頭部分で指し示しているかと思います。
私たちはヨハネの福音書をほぼ順番にそって主の日の毎に御言葉を聴いてきましたが、ヨハネの福音書全体において、要所要所に光について、また反対に闇についての記述があります。3章をみますと、あのユダヤの指導者ニコデモが夜イエス様の所にやって来ました。実際夜イエス様の所にやって来たのでしょうが、やはり夜ということが言われています。ここにはたまたまそうだったという事以上の意味が込められています。6章に目を転じますとパンの奇跡の後、湖の上をイエス様が歩かれた。この時弟子たちは暗い湖上で舟に乗って不安に襲われています。そこにイエス様が現れて下さいました。また今日の出来事の少し先になる9章に目の不自由な人の癒しの出来事がありますが、この出来事も夜と光の世界が対比されていることに気づかされます。
そして、もっと注目させられる所は13章の終わり、イエス様が弟子たちの足を洗って下さった、という出来事が伝えられておりますが、その出来事があった後、イスカリオテのユダがいよいよイエス様を裏切りを実行することになりますが、ユダが出て行く最後の13章30節に、「ユダはパンを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」とあります。こういう言い方は他の福音書ではしていないのです。
「暗闇」がうごめいているそういう中に、今日の8章の、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と、イエス様の呼びかけであり宣言が響き渡っているのです。
もう少し今日の聖書の箇所の前後を見ますと、このイエス様の言葉は仮庵の祭りに関係して語られていると見ることができる。先週みました、8章の姦通の女の出来事はカッコに入っておりまして、一番古い聖書はそういう風になっていたのです。ですからちょっとカッコを意識して前後をみますと、7章に今日のイエス様の言葉、「わたしは世の光である」という言葉がつながることがわかるのです。そして当時の仮庵の祭りの時は、実際灯火を神殿の前庭に灯して、仮庵の祭りを行っていたようです。イエス様は、その伝統をふまえながら、今まで通り前庭に幾つかの灯火を灯す光景を当時のユダヤの人々と一緒に目にしておられる中から、特にユダヤの指導者たちにご自身を全く新しい光であると宣言しておられるのです。
このことは、これまでもそうでありましたが、また新たな躓きを引き起こします。聞いていた人々はイエス様のこの宣言を新たに神様の命に生きることができる時代がイエス様によって到来した、と聞くことができませんでした。
世の光、という言葉と命の光というこの二つのことがイエス様のお言葉の内容として私たちはもっともっと深くきかなければならないのですが、その前にこのイエス様の宣言に続いて起った出来事の推移も私たちは見なければなりません。
私たちがもしこういうイエス様の言葉を聞いたらここにあるような展開はあまり想像できないのですが、13節、それでファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証をしている。その証は真実ではない。」 証という言葉がここに出てきていますが、「わたしは」と、イエス様は非常に力を込めて言われました。あまりこういう言い方は普段の生活の中では言いません。特別な形で、ご自身のことをはっきりと表される、たとえば出エジプトのモーセの時代の時に神様がモーセの前に現れて下さって、「有りて有る者」と宣言をされた、そういう迫力にもつながる言葉でイエス様はお語りになりました。
しかしファリサイ人たちは、モーセに神様が現れて下さった出来事は知っていても、主イエスのこの言葉はそういうこととは結びつかない、別の問題としてこれを受け止めたのです。ファリサイ派の人々は主イエスのこの言葉を裁判の場面での証言と見なしました。自分たちが熱心に信じ、ユダヤの伝統を担ってきた正統的と自負する観点からすると容認できない証言であると断定しているのです。しかも、イエス様のこの言葉を自分で証言をしている証言は、本当の証言にはならない、こういう切り口でファリサイ派の人々はイエス様の「わたしは世の光である」という言葉を問題にしたのです。イエス様のこの言葉を福音の響きとしてではなく、自分のことを自己弁明するごとく語っている、と。これはこの後「あなたたちの律法には、二人が行う証は真実であると書いてある。」とイエス様が17節で指摘をしていらっしゃいますが、何か問題があって裁判が開かれた場合、事を明らかにするためには一人の証人ではだめで、二人以上の証言があった場合初めてそのことが証言として認定される、という律法の定めがありました(申命記19章15節)。これはユダヤの人々の日常生活、何かトラブルがあったときの裁判のルールでした。ファリサイ派の人々はそのことを当てはめて、イエス様のおっしゃったことの内容を問うではなく、手順、手法、形式からイエス様のこの言葉を片付けようとしたのです。
これまでヨハネの福音書ではイエス様が神様の新しいご支配を宣言的に言われました。水のことについてもそうでした。生まれ変わるということについてもそうでした。でもその言葉をきいた人々は、イエス様が神のみ子として明らかにしてくださっているその大事なところをくみ取ることができずに、形式論や手続論で片付けようとしてきましたが、その典型が今日のところでも表されているのです。
イエス様はそのような論法に対して二つのことをおっしゃっています。一つは、証人が二人必要だと言ってもわたしが言っているこの事はわたしひとりで十分だ。証人が二人以上いないとだめだというそんな問題ではない、とおっしゃいました。「たとえわたしが自分について証をするとしても、その証は真実である」と。一般の裁判の問題ではなくて、ここには神様の独り子として神様の真実と恵みをイエス様が明らかにしてくださっている、その宣言がここにも響き渡っています。そして、二つめのことは、百歩譲って、証人が二人必要という論法でくるならば、その線にそってイエス様は仕掛けられた論争に答えようとされました。18節、「わたしは自分について証をしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」。イエス様と父なる神様を二人と数えるのは少し問題を含むわけでありますが、あえてイエス様は、わたしとわたしをお遣わしくださった神様がいるではないか、と仰っているのです。
わたしたちはこのやり取りがどういう結末に至ったかということに興味をひかれるのでありますが、ヨハネの福音書はそのことはこの事件としては中途半端かもしれませんが、こういうことが重ねられて、積もり積もってそしてイエス様の十字架に付けられるという出来事にすべて方向付けられていると思われます。
今日のこの出来事はイエス様がファリサイ派の人々を論破された、その論破されたというところに大切な点があるのではありません。そうではなく一番はじめ、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」。このイエス様の宣言に私たちは惹きつけられるのです。他の人は誰もこのように言うことはできなかった、そのことをお語りくださったイエス様に私たちは出会うことができるのです。今の私たちの信仰生活の中で、私たちのこの時代の中で、主の年2006年が間もなく終わりまた新たにこの主の年2007年に至るそのただ中に、み子、主イエスキリストが光としてわたしたちの所に来て下さっているのです。
イエス様は世の光と宣言されました。「世の」というところに強調点があります。ヨハネの福音書ではこの世ということが出てきます。先ほど直接は引用しませんでしたが、光としてきて下さったこの世はこの光を受け入れなかった、という言葉があります。受け入れない。光を光として受け入れない。光が来てもらっては困る。光によって照らし出されると困る。このままにしておいてほしい。そういう勢力が「世」にあるということです。「世」というと何か他人事のような感がありますが、「世」というのは私たち自身の内側にあるぬぐい去りがたい闇の性質と無関係ではありません。
クリスマスはクリスチャンだけが祝うものではありません。クリスマスは世全体に到来する神の光です。未だクリスチャンになりえていない人々が、クリスマスの光に照らし出されて、私たち銘々の中にどういう思いがあるか、どういう心がうごめいているか、そのことに気づかされるのです。光の照らし出されるのを「世」は恐れるのですが、しかしその恐れはやがて、安心と安らぎと希望へと変えられていくのです。教会でクリスマスが祝われるということは、イエス・キリストがそのような光として私たちだけにではなく、この世に来て下さったことを証しするのです。私たちが住んでいるこの社会、私たちが日々接しているそういう一人ひとり、未だ教会に来ていないそういう一人びとりのために、世の光としてイエス様は来て下さっていることを私たち教会は自覚しないといけない。
第二の点は「命の光」と言われている点です。イエス様は、闇の中を歩く者としてではなく、命の光をもつことができる、この光に照らし出される者は、そういう一人ひとりに変えられる、と呼びかけておられます。
暗くなると何か不安な気持ちになり、寂しくなります。部屋の中で仕事をする場合には、暗い所ではなくてもっと光が充分あるところで仕事をしたくなりますし、また光が十分あると安心します。しかしイエス様のこの光は、暗い所が輝いて光が満ちて安心だ、そのことに終わらない。
先ほど、ヨハネの福音書ではいよいよユダが裏切りに走り出した、それが夜であった、ということでありました。イエス様の十字架の出来事は、闇が闇として蠢いているところで起こりました。しかし、ユダの裏切りの場面から始まったイエス様の救いの出来事は、十字架の出来事を貫いて、最後はどう結論づけられているかというとイエス様の復活です。もちろんイエス様の十字架の出来事を軽視することはできません。しかし十字架の死の出来事は、復活の命の出来事へと結びつけられています。暗闇から光へということは、死から命へ、と展開しています。そのように光の出来事は新しい命に生きる出来事なのです。神様に背を向けて生きるのではなく、神様に守られ、ゆるされ、神様に導きをいただいて生きることをこよなく喜び、そして生きる。そういう命です。うつむいて、闇の中をこそこそ生きる命ではありません。そういうのは本当の命ではないのです。世のすべての人にこの光が臨み、この光は私たちを神様が与えて下さった恵みの支配の中に、顔を上げて、希望をもって生きる、本当の意味でわたしたちの命が躍動する、そういう一人ひとりに私たちを変えて下さる力なのです。
世の光として来て下さっているイエス様によって私たちは、神様の命を生きる者に変えられていることを感謝しつつ、この一週新たな歩みをしていきましょう。